幸せな記憶
書くべきか書かざるべきか。
この連休にしたこと、起こったこと、思ったこと、考えたこと、感じたこと。
それらをすべて書くことはもちろんできない。
すでに忘れていることもある。
思い出せないものごとにはどんな意味があるのか。
そんなことを考えてしまう。
なぜ考えてしまうのか。
幸せだったからだ。
時間は無情にも流れていくし、時間が経てば人間は忘れる。
それは誰でも知っていることだ。
それでも全ての幸せを幸せのままに忘れずにいたい。
そう願いたくなるほどに、楽しくて嬉しくて大切だと思う時間がそこに確かにあった。
感情を書き残す意味
もちろん、美しいだけではない時間もたくさんあった。
その部分は忘れたいと、無かったことにしたいと考えてしまう自分もいる。
美しさを感じられる自分、嫌だと感じてしまう自分、浅ましい自分、いやらしい自分、自信のある自分、自信のない自分、強い自分、弱い自分、嫌な自分を認めたくない自分、認めようとする自分、責める自分。
自分1人だけをとっても感情というのは、一枚岩ではない。
複雑で、とりとめなくて、自分でも自覚するのが難しい。
感情を知りたいと誰かに願われても、とても正確には説明出来るものではない。
思い出という過去の出来事は感情と結びついている。
だから思い出も時間とともに自分にとって、その在り方が変容していく。
だからこそ、「今」の感情を残す事に意味がある。
「楽しい」後の「苦しい」
ジレンマ
しかし、この連休の思い出を「今」の感情として残すことに抵抗を覚えてしまう。
それはなぜか。
さっきも書いたように、思い出の在り方は変容するから。
それを認めたくないからだ。
例えるとすれば、どこかで良く聞いたり見たりするセリフ、「この時間がずっと続けばいいのに」と同じような、とても幼くわがままな感情になっているからだ。
儚くて、切なくて、やるせない、純粋な感情。
僕にとっては、人生で何度体験できるであろうかと思う、大切な感情だ。
しかし過去を思い返すと、こうなった後は苦しさとうつろと幸せとが波のように押し寄せるような地に足のつかない悶々とした日々が続いてしまったことも思いだされる。
現状維持バイアス
最近、少しばかり本を読み、悩みを言葉で書き出すようになったからか、たまに自分の中から自然と考え方の気づきが言葉として出てくるようになった。
今回気づいたのは、僕が「これから得るもの」より「これから失うもの」を意識してしまいがちだということ。
今回はこの意識の癖が極端に現れていると思った。
僕にとって、「思いを書く」ということは変化を受け入れるという事を前提としていたようだ。
悩みはどんどん書けるのに、楽しかったことは書けない理由が分かった。
悩みは「悩みを解決する」ことを得るのを期待し、「悩みを失う」ということを望んでいるから書ける。つまり、現状からの変化を望んでいる。
対して、楽しかったことはどうしても「色あせる、関係が失われる」という方向に考え、変化を恐れる。
そんな考えが書くモチベーションになるわけがない。
ここまで考えてやっと思い出した単語がある。
「現状維持バイアス」
ちょっと使い方が違うのかもしれないけれど、「これから失うものへの不安」が「これから得るものへの期待」を上回る心理が変化を拒む感情になるという意味で同じだと思った。
現状維持バイアスと「悩みをを書くこと、楽しかったことを書くこと」を照らし合わせると、書くには「これから得るものへの期待」が必要だと分かる。
さて、楽しかった経験を受けて、これから更に楽しくなるという方向に考えたことがあっただろうか。
その意識が無かったから書けなかったのだと、今なら分かる。
なぜ「楽しい」の後に「苦しい」のか
「楽しい」後に苦しいのは、「得たもの」に対して、「失う」という方向にしか考えられない心境がそうさせていると思う。
居心地のいい場所から離れたくないという子供のような感情のみに心が支配されている。
実際はみんな大人だから「失う」ことが避けられないのは分かっている。
けれど僕は大人だからその感情のみに支配されているようではいけない。
「失う」ことはゆっくりでも受け入れながら、「これから得るもの」を考えるようでなければ、いつまでも子供のようにヤダヤダと周りに迷惑をかけるだけになる。
子供ならそれでいいかもしれないが、大人で、まして社会人ともなれば、いつもそれではいけない。
今回の現状維持バイアス
少しだけ、今自分の考えた具体例として、今回の件を取り上げて考えると、
「得たもの」が「親密な関係、楽しい記憶」とすると、「失うもの」は「親密な関係」、「失わないもの」として「楽しい記憶」となり、期待される「これから得るもの」は「楽しい記憶を得た上で自分が希望する、これからの人生」であり、もしかするとそこには「より親密な関係」があるかもしれない、当然「新たな出会い」もあるだろう、とにかく得たものの上に様々な物事が起こってくる。
その時に今回得たものを受けて、自分がこれから何を期待するのか、望んでいるのかを考えてそれを得ようと行動することが「幸福」につながるのであって、それを強欲とは言わない。
逆に、得たものに対して、自分では、人の力ではどうにも出来ない失うものばかりを考えて、それを何とか手元に残そうと強引な行動を取って時間を無駄にしてしまったり、より悪い状況を生み出してしまうことが「不幸」につながり、それを強欲と言うのだ。
うーん、どうにも抽象から具体に落とし込むのが苦手だ。
でも、考え方としてはだいぶ、突き詰められた気がする。
定着するのは、いつになるか。
一言まとめ
「得たもの」に対して「これから失うもの」を考えてしまうことを受け入れつつ、「これから得られるもの」を積極的に考えるように心がけたい。
楽しかった
書くという事をやっていなかったら、今頃どれだけ虚ろになっていただろうかと考えると怖い。
それくらい、いままでの人生で一番楽しい感情の高まりが大きかったように思う。
世間一般的な観念にとらわれないで、自分の望む楽しいを感じるという意味では間違いなく一番であったと言える。
だからこそ、これを「不幸」に繋げたくはない。強欲になって、台無しにしたくはない。
失敗してもいい、自分の期待する心を大事にしたい。
人生の流動性を受けいれ、アップデートしていきたい。
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