メリハリ

考えたこと

時計が欲しい。

美しい時計が。

時計を見つめているのに、時間を忘れるような、そんな時計が欲しい。

今日も失敗をした。

知らない事を知った。

次は間違えたくないと思った。

そう思えている自分を認識できた。

間違えたくないと思っている自分がいる。

そんな自分を大切に出来る。

間違えたくないと思っているなら、間違えてもいい。

むしろ、それは絶好調だ。

間違えれば間違えるほどに間違えなくなり、新たな事を知ることが出来る。

知ることが出来たと実感できなくても、出来る事は自分の意思と関係なく増えていってしまう。

人間には、記憶装置と演算装置がある。

感情によって、そのパフォーマンスは大きく変わってくるが、最低限は機能していると信じる。

であれば、どんどんデータをため込み、使い、学習していく。

同じことの繰り返しならば、感情を揺さぶられることも無く、安心だ。

だが、それはその瞬間の一時感情だけの話だ。

記憶装置は新しいデータを取り込まなければ、退屈だろう。

演算装置は同じデータを参照する作業だけでは、退屈だろう。

そうなれば、結果として退屈だという感情が算出されるだろう。

バランスだ。

安心で退屈、不安で新鮮。

メリハリが大切とは、そういう事をいうのかもしれない。


僕は思った。

それが本である限り、僕には興味がある。

たとえ、面白くなくても。

できれば個人の書いたものがいい。

言葉の面白いところは嘘を書けるところだ。

それが著者の本心かどうかとか、伝えたいことかだとかは、判断する術はない。

大衆に共感され、売れ、生活する為の文字の羅列かもしれない。

そんなところまで含めて、著者の本心に心から共感するならなおさら、嘘だとしてもその嘘が全て著者から発された物であればこそ、読者である僕個人が個人と対面しているという事実に思い馳せ、傾倒する事が出来るからだ。

ある意味対等に向き合う事が出来ると思える。

個人が個人に影響を与える、その感慨が大事だ。

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