「先週、辞典を買ったんだ。」
学校の帰りがけに治が告白してきた。治にしては興味をそそる話題だ。上靴の足の甲の部分のゴムを使って紙飛行機を飛ばそうとしていたり、丹精込めてつくったピカピカの泥団子を、何を思ったのか白い布に包み、きゅっと縛っててるてる坊主をつくったかと思えば、教卓の中につるし、後日泥団子泥棒探しに奔走していた、アホな治が辞典などという頭の良さそうなものを買う時点で面白い。そして、何の辞典かを明かさない所が絶妙だ。スルーできないではないか。
「お前が辞典とはどういう風の吹き回しだよ。何の辞典?」
「物語辞典。」
やるな。なんだそれは、ちくしょう、気になるではないか。しかし、ここでどんな辞典かを聞いてしまっては、興味を持たれたと思って調子に乗ること必至。辞典のことはいったん置いておき、辞典を買うに至った動機を聞いてみるか。
「お前、本なんて教科書とマンガ以外読まないだろ、なんで辞典なんだよ。」
「ほら、物語は全部読まないと意味が分からないでしょ。辞典なら全部読まなくても内容がひとつひとつ分かるから、いいかなって。」
なるほど、それで物語の辞典か。いやなるほどじゃない。物語の辞典ってなんだよ。どんな内容なんだ、どんな物語の辞典なんだ。ていうか、なんで急に本からそんな知識を得ようと思ったのかという質問の答えはもらえてないぞ。
「辞典形式のものを選んだ理由は分かったよ。でも、なんで急に物語を知ろうと思ったんだよ。」
「兄ちゃんが最近”人間失格”を読んだらしくてさ、それを話してくれた時に言ってたんだ。俺は太宰を反面教師にするって。それが、なんかカッコよくてさ。だって太宰の人間失格って俺でも知ってるくらい有名だろ。それを反面教師にするって、すごいと思って。反面教師って、悪い見本にするってことだろ。兄ちゃんは、そんな有名なものを悪い見本にするって言ってるんだぜ。なんかカッコいいと思って。」
なるほど、やっぱりこいつはアホだ。でも面白い。見えてきたぞ。有名な物語を知って、それを反面教師にするって吹聴したいんだな。それがカッコいいことだと思っている。でも、長文を読む気はないから、有名な物語が網羅されている辞典というわけか。で、やっぱり物語辞典って謎だ。どういう形式にまとめられているんだ。ジャンルごとか、国ごとか、物語なんてカテゴリーが広すぎる。探りを入れてみるか。
「その辞典って、どんなふうにまとめてあるんだ?」
「五十音だよ。」
なんだそれ!物語だろ、五十音でまとめる意味が分からない。1ページ目はアラビアンナイトから始まったりするのか。ちなみにアラビアンナイトとは千夜一夜物語とも言われるイスラム世界の説話集のことで、イスラーム帝国が勃興する651年以前のサーサーン朝時代にまとめられ、いろいろな言語に翻訳されながら今まで受け継がれてきている。
「最初は何ていう物語が乗っているんだ?」
「伊勢物語!読んだけど、よく分からなかった。」
日本古典文学だ。俺も欲しい。ていうか、こいつやっぱアホだな。源氏物語を反面教師にして、聖人君子にでもなるつもりか。
「分からなかったなら、俺にくれよ。ちょっと気になる。」
「いいよ。次はユーモア辞典買おうと思ってるから。」
なんだそれ。
こいつはアホだけど、こういう突飛な発想と行動の奇抜さが、なんだかんだで気に入っている。
その点だけは、俺はこいつをアホという反面、教師にしている部分だ。
使用必須ワード 「アラビアンナイト」、「五十音」、「反面教師」
あれ、短くまとめると言ったのに、結局この長文駄文。いや、書くことが目的だ。名文か駄文かどうかは問題としていない。楽しく夢中で手を動かした。その証がここにある。それが嬉しいし、楽しかった。
ランダム単語は面白い。知らない単語が出てきたら調べざるを得ないし、知っている言葉でもいざ文章に組み込もうと思ったら、理解が正しいのか、使い方がずれていないか気になり、調べる。調べるという事は楽しいことだ。仕事中にしばしば思う、使う事前提で調べた知識は定着する。当たり前の事だけれど、いかに日頃、知るだけで満足しているかが分かる。
このランダムワード作文はそういう意味でも、有意義で、楽しい作業だ。
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