作られながら創っていく

考えたこと

知っている言葉でしか、文章は書けない。

知っている言葉でしか、話は出来ない。

知っている曲しか、唄う事は出来ない。

知っている選択肢の中からしか、行動は選べない。

知っているやさしさでしか、人にやさしくすることは出来ない。

自分はすべて経験から構成されている。

自分で選んだ本より、与えられた教科書の方が多い。

自分で見つけた曲より、テレビで流れていたり友達に勧められたりして知った曲の方が多い。

こういう事をされて嬉しかったから、僕もこうしようと考えて行動をする。

情報は不可抗力的にふりかかる。

社会で生きるとはそういう事だ。

行動を選んでいるつもりでも、その先の経験は予測どおりにはならないものである。

そういう意味では、自分という人間はどうしようもなく環境によって作られている。

身も蓋もない話である。

しかし、人生は不可抗力的に作られるだけではない。

また、得られる結果は予測できないまでも、結果を得るまでの過程は自分で選択できることが多い。

それは、進路だったり、就職先だったりという一大イベントというものもあるが、それよりも住む場所はどこにするか、本を読むか読まないか、映画を見るか見ないか、ドラマを見るか見ないか、外食をするかしないか、シャンプーは何を使うか、誰と話をするか、誰と話をしないか、どこへ出かけるか、どこへは出かけないか、ベッドにするか布団にするか、エアコンをつけるかつけないか、自炊をするかしないか、晩御飯は何にするか、何時に寝るか、何時に起きるか、次の分かれ道を右に曲がるか左に曲がるか、等。

上げればきりがないこういった細かな選択をどれだけ自分の決断として認識するか。

そして、そこに実験的な意味合いを込めれば込めるほど、人生の経験の方向性をだんだんと定めていけるのだと思う。

つまり、人生を自ら創っていけるという事だ。

例えば、自炊をする時、どれくらいの時間とお金がかかるのか、自炊をすることで得られるものは何かといったような自炊のメリットを知る為に実験的にする場合と、自炊の方がいいという世間的なイメージに従ってなんとなく自炊をする場合とでは、同じ自炊でもそこから得られる経験という感覚の重みが違うと考える。

どちらがいいという話ではない。

ただ後者の場合、自炊というものに何か不満を感じた時、例えば時間がかかりすぎる、お金が意外とかかる、片付けが面倒など、自分が自炊をしている事実への負の感情が行き場を失う。

自分の持つ世間的イメージに苛立ちをぶつけるかもしれないが、誰も取り合ってはくれないからだ。

こういった行き場のない負の感情が悩みになり、漠然としたマイナスイメージの経験になってしまう。

その点、前者の方が自分で経験を積み上げている感覚が強く、問題を不満として捉えにくいのではないかと思う。

なぜなら、選択の責任が自分にあり、なおかつ実験的な目的があるから。

この認識があればこそ、かかる問題は漠然と不満を感じるだけの負の経験ではなく、一つの確かな人生体験となり、自炊以外の様々な出来事に対しても「経験になった」と悠揚に構える事が出来るのだ。

そうして、自分の責任によって自分に経験をさせることで、自分を創っていけると思うのだ。

経験によって、人は構成される。

僕の人生は僕が創りたい。

そして、願わくば僕が他人に対して良き「体験」になれたらいいなと思う。

教えるでも、諭すでも、体験させるでも、もちろん押し付けるでもなく、僕が「体験になる」。

うん、いや、どういうことだ笑

まーた抽象的で意味のない理想論を語るだけになってしまう。

具体性、具体性。

自分で言ったじゃないか、認識力、実験思考。

んー、「体験になる」てなんだぁ

なんか一瞬しっくり来たんだけどなぁ泣

まー、また思い出すかもしれん。

そのために書き遺しているというものあるし。

いやぁ、我ながら回りくどい!でも楽しい!

もっと気取った、でも自分にとって意味のある文章書きたい。

自分以外に向けて文章を書ける日が来るのだろうか。

いや、待っていても書ける日など来ない。

つたなくても、書くことが遺すことが、表現することが僕にとって大事なことだ。忘れるな。

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