悩みを書く

考えたこと

書くこと

書けない時

書くことだけが目的で、なんでもいいから書きたいと思っているのに、なにも思い浮かばず手がとまっている自分に気づく時、同時に自分が見栄を張ろうとしていることに気づく。


この時、僕は自分を冷静に観察することを忘れ、他人の目を気にしているのだ。


いつからか、気にしだして、僕の行動と発言を抑えてきた他人の目。

そこには、僕の承認欲求だったり、よく見られたいという見栄だったり、自分の好きでない部分に引け目を感じていたり、そんな中で何とか自分を保たせている、ささやかな自信を大事に守って表面に出さないように、出てこないようにとびくびくしている臆病な感情がある。


ここから先を言葉にするのが大変だ。これ以上、自分でも踏み込ませてくれない。言葉にしようとしない自分がいる。

でも、なんとなくこれが、僕の心にもやをかけている正体だと、わかるんだ。

これが壊されては自分が保てない。けれど、これがあるから、自分が表面にでてこない。書けない。

楽しいことないかなーってやつ


素直になる。言いたいことを言う。やりたいことをやる。こういった言葉が、僕の頭の周りをぐるぐると、見下ろしながらまわっている。


そうなると、本当に何もできなくなるし、例えばアニメや映画、ユーチューブを見ていても、なにか自分に対する罪悪感と焦燥感に襲われていて、笑っていても自分の心が疲弊していくのを感じていた。


こういう時、近くに誰かいたり電話していれば、誰かについ言っていた。
「ねえ、面白いことない?」「楽しいことないかな~」
僕が本当の意味で満たされる何かを得られることは、期待していなかった。
いつも、この袋小路にいる事を忘れさせてくれる麻薬的な展開を期待して言っていた。
それは、相手もなんとなくわかっていて、お前の求めているような万能薬は持ち合わせていないという事はあえて言わず、まあお茶でものんで落ち着こうと言ってくれる。


気を紛らわす為に人を使うような行為をしていたことに気づく。
これからこの言葉を言いたくなった時、どうしよう。素直に行き詰っていると伝えようか。自分で何とか、耐え忍ぼうか。歌でも歌って。

それも文章にする

今は文章を書ける。

ストレスが無いくらいにタイピングは早くなったし、少し好きになってきたくらいだ。
よく悩み事は紙に書くといいというから、何度かやろうとしたけれど、ペンでノートに書くのはおっくうでまともに書いたことは無かった。
大抵、書けるほど具体性を持った悩みでもなく、漠然とした不安だったり、恐怖だったり、何に対してかもわからない、自分が生きている事への苛立ちのような感情だった。
タイピングはそんなかたちのない感情を、何度も書いては消してはを繰り返しても、腱鞘炎になることはないし、漢字が分からなくて、カタカナつぎはぎだらけの日本語を書かずに済む。
日本語以外の言葉は全くできないから比較ができないけど、日本語は結構好きで、そういうつぎはぎの日本語をみると、少しかわいそうだと思ってしまうんだ。

僕もできれば、丁寧に使いたいと思ってはいるが、今はとにかく書くこと優先。

最近つけ始めた日記の内容も書くことはネガティブな内容ばかりだが、これが不思議なもので、書いていると悩んでいる事を誇らしく思える時がある。

答えが出るわけではないけれど、今までより、確実に進んでいる感覚が得られる。

今までは、頭の中で漠然と不安が湧き上がった、嫌なものがダイレクトに体のだるさだとか頭痛になっていた気がするが、今はより考えることである程度緩和できるようになった気がする。

考えられなくても、家に帰って書けばいいと思える。

書くという事は楽しいことで、書けるという事は悩みがあるということ。

なんだか、危ない一人遊びを覚えてしまったようだ。

この時、孤独はいつも目の前で柔らかく存在してくれている。

悩みと書くこと

つらつらとただ思ったことを書くことに、終わりは見えない。無限に書ける気がする。
テーマを与えたら、そのテーマごとの終わりは結構簡単に訪れてしまう気がするけれど、そこは自分の知識と見識の浅さだ。
けれど、僕の悩みは尽きない。これからも死ぬまでくだらないことで悩み続ける。
だから、これからも書くことは尽きない。

悩みをただ書いてどうするんだと言われるかもしれない。

ただただ、同じような悩みを書いた文章が生きた日数分、残るだけかもしれない。

でも、それでいいと思うんだ。

自分との闘い


僕は弱い人間だ。

人と比べてしまうし、ちっぽけで大切な自分を守るために人を傷つけてしまう。

これからも、傷つけ続けるし、失望させる。自分も失望させる。

そしてまた自分に期待し自分を裏切り、自分に絶望し、希望を求めて動く。

その過程でまた他人を傷つけてしまう。

そういう人間なんだ。

そこを隠したり、ごまかしたりしないことで、認めてあげることで、やっと素直な自分が顔を出してくれるんだ。書けるんだ。

気取ろうとすると、とたんに自分を見失って、意義が消失して、意味を感じられなくなって、書けなくなって、話せなくなって、世界に触れる手段を失ったような孤独感にさいなまれる。

だから、自分を認めることから目をそらしてはいけないし、むしろ堂々とオープンにしなければならない。これが、自分との闘い。

反省

僕は、1か月ほど前にひとつ、今までの人生を通して反省し、考えを改めないといけないことに気づいた。

それはなんでもない、ごく当たり前のことで、なぜ気づかなかったのか不思議なほどだ。

いや、理由はわかっている。傲慢だったのだ。
自分の悩み、不安、恐れ、そういったものに囲まれて、行動を起こせない時、いや起こさない時に、自分は「考えすぎている」と思っていた。

悩み相談した相手から考えすぎだよと言われることがあると思うが、少なくとも自分の捉え方は間違っていたんだ。

「考えすぎ」ではなく「気にしすぎ」が正確だ。

何を反省しなければならないかというと、実際は考えていないことだ。

気にしすぎてしまって悩み、相談して、考えすぎと言われて、結局何もしないできた。先延ばしにしてきた。

結果、時間が解決してくれたことも多いから、それでいいかもしれないと思えるが、ちゃんと考えて解決まで自分を導くことが出来たら、同じ悩みを繰り返さずに済むだろう。

だから、いつまでも成長している感覚が持てないのだ、脳がアップデートしていないんだ。

問題は時が流してくれているのに、また同じ問題に引っかかるんだ。だから、時の流れに対して変わらない自分に失望する。

あの時と同じじゃないかって。考える事を放棄して、時間が解決してくれるのを待つのではダメだ。

また解決してくれるまでの間、悶々と悩むだろう。

考えて、時間が解決してくれるものだと判断できるようになったら、次に同じ問題に行き当たったとき、悩まずに時間がたつのを悠々と待てるようになる。

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