散歩と考えたこと

考えたこと

言葉

僕は僕のつかう言葉でできている。
周りを気にして、自分ではない言葉(特にきらいな言葉)を使うのは出来るだけやめよう。

救いたい心

自分すら救えないのに、他人が救えるかって思っていたけれど、これって関係ないと思った。
苦しんでいる人が、他の人の苦しみを取り除こうとして、なにがいけないのか。
自分が苦しんでいるからって、人の苦しみを取り除けない道理はない。
では、どうするか。救おうとすればいい。

散歩

なぜ散歩をするか

夜に散歩をする。
日々、仕事をし、本を読み、日記を書いている、休日には友人と電話をする時もある。
半ば強制的に、受動的に、時に能動的に、僕はいろいろなことを見聞きし、考えている。
それが何なのか、残しておきたいと思う。なんでもいい。僕は僕を知りたい。
そのためには、その瞬間の思考をできるだけ後で見返せるようにしなければならない。
だから、僕は散歩をする。

悩みを考える

今日は、仕事を定時で終えて時間はあったが、かなりネガティブな心境であった。
理由は分からない。確かに仕事の事で不安はあるが、そういった現実的な所ではなく。生きている事だとか、自分の存在という事を考え始めてしまった。
前はそんなことを考えてしまって自分はダメだなと考えてしまっていたが、近ごろは考えるという行為のきっかけ、自分の知識や思考を知るヒントになるという考えをするようになった。
家から出た瞬間。思考は言葉になっていなかった。ただ、漠然と不安と恐怖、虚無を感じていた。
5分後、何者も自分の生に意味を与えてくれはしない事を考えていた。ニーチェのやばい思想で、これを思い出すときつい。
だけど、今の僕にとってある意味で勇気が出る考えでもある。
意味を他者に求めず、自分の事だと腰を据えて、考えるきっかけを与えてくれるから。
意味を他者に求めると、振り回される人生を選ぶことになる事を知った今は、ここを考えることの重要さを感じている。
そして、出来るだけ現実にそって、自分の事を考えてみた。

仕事がなかったら?

まず、仕事。なぜ仕事をしているのか。一言で言ってしまえば、生活の為だ。
やりたいことは何か。ここで詰まる。どうしても、制限を考えてしまうからだ。時間の事、お金の事、周りの目の事など、無意識に自分の思考の自由に制限をかける要因がある。しかし、制限があるから問題があるから解決したいだとか、乗り越えた時の達成感といった意味で、やりたいことが生まれるのも事実で、そのバランスは難しい。

僕は、月並みに、仕事をする必要がなく自由に使えるお金があったら、自分は何をするだろうと考えた。
寿命という僕の時間は、いつ死ぬか分からないという、今と同じ感覚を心がける。
まず、本を読む環境を作る。家と書斎、豪邸なんていらない。
そして、猫を飼う。里親募集をしている猫がいい。愛情を注げるだけの数を引き取る。
そして、本を読む。気になったことや、知りたいことは調べる。

その為に、世界を駆け巡ることになるかもしれない。

あとはクリエイティブな仕事をしている人や、情熱を注いで何かに取り組んでいる人の話を聞きたい。
そこにある悩みや人生観を聞きたい。生い立ちを聞きたい。
そして、僕は聞いたこと、経験したことを書きたいと思った。
僕というフィルターを通して、目の前に綴られる文章を読みたい。
僕を通して出来上がった文章に、まずは僕自身が納得したい。
やはり、僕は自意識が過剰だと思った。

そして、その文章を発信したい。その反応から、また考える事があるだろう。
あとは、健康な生活を心がける。長生きの為にとか、生への執着ということではなく。健康であるほうが、経験できることが多いと思うから、もちろん、避けられない不健康から生まれる哲学もあると思うから不謹慎ながら興味はあるが、どちらかを選ばなければならないのなら当たり前だが健康であることを選ぶ。
僕は、臆病だ。傷つくこと、自分が他人に良い影響を与えられないと実感してしまう事が怖いのだ。だから、まず、自分で自分を認められる確固たる価値観を欲している。他者の反応で自分の行動が出来なくならないような、信念を持った発信、行動をしたい。そして、良くも悪くも影響を与え、どんな反応があっても僕は僕のままで変化したい。。

月とセンチメンタル

20分後、家に戻る直前には、月とかぐや姫のことを考えていた。月は確かに存在している。しかし、見えるが触れられない。
確かな存在感を感じてはいるが、月への関心は薄い。それは、自分の世界への影響を感じないからだ。だから、いつもは何も思わない。
満月が目に留まって、満月だなあと思うくらいだ。しかし、センチメンタルな日には強烈な存在感を放つ。
今日はこんなことを考えるくらいにはそんな日だった。
月に影響を受ける。圧倒的な存在を感じ、眺める。ただ、ひとつしかない月という存在に意識を持っていかれる。
しかし、自分が月に影響を与える事が出来ないと感じる。見えるだけで触れられない。急にかぐや姫の物語を思い出した。
こうなってくると、そんなこと微塵も思っていなかったが、短歌や俳句、文学、小説、あらゆる表現物において恋心の表現をする象徴として、月が用いられることを考えだし、そして納得した。
自分も物語を書きたいと思った。書けないと思った。

思考の整理学より

今読んでいる思考の整理学という本の中で、頭の中の思考は立体的で、書くという行為は線を書くようなことだと言っている。
考えがまとまらない時というのは、糸が絡まっている状態で、書くという行為は、一本ずつほどいていくようなものらしい。
僕の感じた世界観や価値観という物を見える形に表現する方法で、すぐに出来ることは書くことだ。
となれば書くという技術を知らなければならない。人間の脳の思考、絡まった糸をほどいていく技術を身に付けなければならない。
ここまでくれば、理想を実現するための行動を選択していくのみとなる。
時間は限られている。
仕事はしなければ生活出来ない。

バランスを考えて、人生を決めなければこれは本当に後悔することになる。

自分が分からない?

この後の知識が増え、考えに進展があった。
分かってはいたことだけど、本当の自分というものは分かるわけがない。
そもそも、なぜ知りたいのか。それは、本当の自分を知ったならば、そして自分の思う事をその通りに行えば、満足感、充実感が得られるし、悩みなんてなくなると期待しているからではないか。
しかし、ここまで自分の考えを書いてきて、これも当たり前だけれど、気づいたことがある。
思考は変化する。本当の自分なんてものはない。自分が分かったと思ったら、また、分からなくなる。
欲しいモノを手に入れては飽きる。飽きはしないでも新しく欲しいモノができる。
楽しいことを見つけても、変化が乏しければ離れてしまう。
その繰り返しだ。瞬間瞬間、人は変化するのだ。これは、成長だ。
人は成長していくから、悩みもするし、自分を捉えられることもない。

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