はじめに
前回の記事「僕にとっての物語」を描いた日と同じ、8月30日のことを日記としても書いておく。
というのは、昨日出会った一冊の本を今日読み終え、この本と出会うまでの記録を昨日思ったことと一緒に残しておきたくなったから。
長文になる予定はないけれど、相変わらず書きたいことをまとめてから書き始めているわけではないから、あとで見返して、ん?となる部分が出てくるだろう。
それでいい、それも楽しい。いっぱいいっぱいに、一生懸命書いている感覚が生きている感じがする。自分の気持ちを描き切れていない感覚、ハングリー精神というか、考えて書いて、書くことで考えるという、終わりのない感覚の中で、考える事も書く力の両方に、やるせないほどの未熟を感じる。だから、ふと思ったことはすぐ書く。知らない言葉は調べる。考えたことを書くために経験し、書くために考える。何か進んでいるようで、でも今はまだ、同じような自分の中の感覚を毎日ぐるぐるかき混ぜているだけ。言葉を使って書くという遊び。小さな子供が、単純でくだらない遊びをひたすら繰り返すような。そんな遊びを大の大人が、嬉々として繰り返す。そうだ、今書いている文章は、一言でいうと「歓喜」だ。恥も外聞もなく、棒を振り回して遊ぶ大人、それが今の僕だ。
8月30日のこと
出来事そのまま
いつ日記を書き始めるんだという突っ込みが自分から自分へ、やっと入ったので書き始めるとする。
昨日は日曜日で仕事は休み。
昨日は年甲斐もなく長電話で朝まで笑いこけるという思い返すだけで、幸せ貯金がなくなっていくような時間を過ごしたので、起きたのは12時。
そこからは家の事して、落ち着いたら「羊と鋼の森」を読み始めた。映画はいつだったか見たことがあって、結構好きな映画だ。本を読み切ってはいないけれど、やはり良い。ただ、読んでいると映画を見た時の感覚と一緒に内容まで思い出してしまう。悪いことではないのだけれど、今は新たな出会いを求めているらしいことに気づいた。
先週、書店に行っていない事に気づいて書店に行きたくなったので、三千円だけ財布に入れた。お金を持っていると、つい買ってしまうから。
家をでて駅に向かうまでの少しの間、朝からクーラーにさらし続けてきた体に、16時でもなお容赦のない夏の空気が心地よかった。
空を見上げるといかにも夏らしい青い空があり、縦に立体的な雲の上から指す太陽の光がその雲の立体感をより際立たせ、漏れる太陽光がその景色の美しさをさらに引き立てていた。これだけで、外に出てよかったと思った。正直、もう戻って積んである本を読もうかと思った。
いや、引きこもりすぎもよくない。所さんも、布団からでなくちゃダメ、自分を動かさないとドラマが生まれないもん、とか言ってた気がするし。たった、数駅だけど自分を動かすかぁと足を進めた。
あ、これ長くなる奴だ。いや、前置き長くて本題で力尽きるやつだ。テンポよくいこう。
単語と物語
ここからが、本当に書きたかった、残しておきたかったこと。
この、駅まで歩く時、目に入るものの単語をできるだけ頭に思い浮かべようと思った。僕は外にでると人の目ばかり気にしてしまって、考える事が出来なくなるから、その対策として、やってみた。これが功を奏したのか、昨日の記事「僕にとっての物語」の元になる思考が生まれた。単語を並べて物語ってところからの、2500字。
単語を思い浮かべて、それをうまく使えたら、書店に本を見に行くという何でもない行動も、僕の物語になるのかなぁとか、さっき見た空の景色も写真ではなく、言葉で残せるのかなぁなんて、考えた。物語が書きたいわけではないけれど、事実として、物語は言葉というコミュニケーションツールを用いて、出来ていることを思うと、今の自分が思ったふわっとした感覚をより正確に記録として残すには、言葉を連ねることしか無いと思ったら、物語でなくてもいい、書きたいと思った。その文章というのは、自分であり、自分をつくるものだと思った。会話は苦手なんだ、文章よりよっぼど正確じゃない気がするんだ、自分の考えなんてそんなに確かなものを持ち合わせていない、話しながら、いやちがう、これもちがう、そうでもないってこっちの言い方の方が正しいなんて、考えるけど、会話は最初の一言一文が自分になってしまう。それが、あなたの本当の姿ですよって言われても、認めたくないんだ。
と思いながら、電車の中でスマホのメモ帳に書きなぐっていた。
本との出会い
そして、書店で上橋菜穂子さんの「物語ること、生きること」という本に出会った。
縁あって上橋菜穂子さんの著書はひいきしているのだけれど、著者名で惹かれたのではない、本当にふとタイトルだけが目に入り、電車の中で考えたことを思い出して、手に取った。著者名も見ずに、適当に後半あたりのページを開くと、この著者にとってはじめて読者となってくれた人とその時の事を描写した文章だった。ここで、この本が著者自身のエピソードを集めた本だと知り、著者は誰だろうと思って表紙をみたら、上橋菜穂子さんだった。獣の奏者は全部読んだが、あとは鹿の王の2巻までしか読んでいないし、守り人シリーズもこれからゆっくり読んでいきたいと思っているところだ、でも僕にとってはよく読んでいる方なので本当にびっくりした。
購入の決め手は、適当に開いたはじめての読者の所で、その読者に弟が入っていたからで、それだけ。俺は弟エピソードに弱い。だから、こんな日記を描くことになるとは思わなかった。
ページ数は少ないながら、2日というスピードで読破してしまったのは、一重に面白かったから。出来れば、著書をすべて読んでから読めればよかったけれど、あとのまつり。多少のネタバレもありながら、前よりさらに読みたいと思えたのだから、むしろ先に読んでよかったかもしれない。
内容はタイトル「物語ること、生きること」のとおり、上橋菜穂子さんにとって物語とは書くとはどういうものなのか、過去の記憶とともに詳細に語られている。上橋菜穂子さん自身の文章ではなく、瀧さんという方がインタビューして聞き取った内容を本にしたもので、より読者が聞きたいこと知りたいことをまとめてくれている。
泣いたこと
僕は、この本の終盤のある文章を読んで泣いた。
それはこの本を読む前、昨日電車の中で考え、記事に書いたことと通じる部分があって惹きつけられた。
とてもきれいな文章で表現されている。
物語を書くことは、そのひと言では言えなかったこと、うまく言葉にできなくて、捨ててしまったことを、全部、ひとつひとつ拾い集めて、本当に伝えたかったのはこういうことなのだと、かたちにすることなのだと思います。
物語にしないと、とても伝えきれないものを、人は、それぞれに抱えている。
上橋菜穂子 (構成・文/瀧晴巳) 『物語ること、生きること』 講談社 p.183
僕は今、似た感覚で文章を書いているというのもあってこの文章に惹きつけられたが、泣いてしまったのは最後の一文で、物語にしなければならないほどのものが自分にあるかは分からないけれど、人が皆、物語という壮大で深いものを抱えているという事とそれをお互いに伝えあうことの難しさ、実際は、上の文章を借りて言うと「うまく言葉にできなくて、捨ててしまっている。」であろう伝えられなかったものが沢山あるのだということを思うと涙が出てきた。この涙が出てきた時の僕の感情も、文章で伝えようとしても、うまく表現できずに捨ててしまう部分があるのだろう。同じように、皆が伝えたくて伝えられないこと、そのとおりに伝わらない世界で生きている。
自分でもよくわかっていないこの涙の意味を、できるだけ掬い取って伝えようと試みたいと思う。しかし、完全に正確な表現を期待もしていない。何故なら、思考は時間とともにどんどん変化するもので、感情と思考の矛盾なんて日常茶飯事で当たり前で、とてもではないけれど、自分が本当に何を考えているかなんて分からないから、その瞬間を切り取って決めつけて表現するのが関の山だから。でも、それは絶望ではなく、希望で、喜びでもある。分からないから興味を持ち、何かを求めて活動するのだ。正解が定まってしまったら、その瞬間に人間は活動という活動を一切しなくなるだろう。苦悩があるから、人は考えるし、得られないものがあるから得ようと活動し、その過程で喜びや希望を感じるのだ。
そういうわけで、僕は単純に悲しくて泣いたのではないことを強調したい。上の文章からは、捨てられて悲しいと捉えるのが自然だし、僕もホントの最初はただ悲しくて泣き始めたのかもしれないけれど、伝えきれないほどのものをそれぞれが持っているということに、少なくとも本の数だけ物語があるという事に人類の価値を感じたし、本になっていないだけの、物語が人の数だけあると思うとわくわくするのだから。矛盾はない方がいいとか、裏表がない方がいいとか、そういう考えをすることもあるけれど、矛盾があるから、希望が持てたりすることだってあると思う。もちろん、等価で良い面の数だけ悪い面もあるということになるが、良い面が100で悪い面が0なんて、面白くないと思ってしまうのはサイコパスなのか?そんなことを考えるのも、面白いんだけど。
書くこと、残すこと
泣くほどの感情の高まりを経験することは、そんなに多くは無いから、チャンスだと思って感情に任せてひたすらにキーボードを打った。
素直に書きたい気持ちとうまく書きたい気持ちがないまぜになっている気がする。自分の考えている事を残すなんて、自分でも恥ずかしいと思うけど、なにか今までにない手ごたえがある。自分と向き合っているというのか、戦っているというのか、自分をつかんで抑え込んで、白状しろと言っている感覚の時もあれば、勝手に無防備に出てきている時もある。そんな感覚がまた楽しかったり、達成感になる。二度と見返したくないようなモノでも、残したという事実は必要だったと思える。残すって、そういうものだと思う。
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