大丈夫ではない。
特に何かを書く必要もないほどに、今、僕は日常に問題を感じられずにいる。
それは一見、幸せなことで「大丈夫」な精神状態だと思える。
しかし、僕は過去を慈しんでいるか、未来に期待しているか、なにより今が満たされているかということを考える。
答えはNOであって、自分の欲望や自信過剰さにあきれる。
何が僕を幸せにしていないのか、何が僕を幸せにするのか、そもそも僕にとって幸せとは何なのか。
曖昧な、抽象的な感情を具体的な言葉や行動にするのは難しい。
だが、自分の価値観に誠実になって行う行動が自己肯定感、自己効力感を育てるのは明白に思える。
だから、僕は今書いている。
自分の価値観を自覚し、具体的な行動へと自分を導く為に、考えたことを文章に書いてみている。
最近少しわかってきた感覚がある。
それは、幸せについて意識的に考える必要はないという事。
なぜなら、意識せずとも幸せになりたいというのは当たり前にある人間の根本的な価値観だから。
自分の価値観に素直に行動できることが幸せにつながっているはずだ。
幸せというのはとても大きな概念で、その一言で何もかも救われるような力がある。
でも、抽象的な概念である幸せを具体的な物事に落とし込むのは慣れていないと難しい。
抽象度が高ければ高いほど具体的にするのは難しい。
「お金を稼ぎたい」→「バイトする、残業する、転職する」
「仕事をバリバリこなしたい」→「勉強する、セミナーを受ける、仕事を引き受ける、残業する」
「仕事に充実感を感じたい」→「転職?、スキルアップ?、人間関係?、通勤時間?」
「役に立ちたい!」→「ん?」
「町を元気にしたい」→「え?」
「世界平和」→「は?」
いや、世界平和を考えている人達を馬鹿にしているわけではない。
概念が大きいと具体例を出すのが難しいという例を表してみたかった。。
例を考えてみようとして自分の抽象から具体を捉える能力が低いことを改めて実感する。
石の上にも三年だ。塵も積もれば山となるだ。
あせってはいけない。牛のように図々しく進むのが大事なのだ。
すこし取り乱した。
要するに、幸せなんてとりとめのない雲のような存在を意識的に追い求めても、具体的に自分は何をしたらいいかまで落とし込むのはなかなかに難しいので、幸せという概念の迷路の中で正解の行動を探すよりも、幸せなんてものを考える前に動いてみたらよろしい、という事を言いたい。
それでも、どうしたって考えてしまうだろう。
時には物思いにふけり、悩むだけの時間も必要だ。
だけれど、それが数か月も続くようでは、本当にそのままになってしまう。
だから、この考えを定着させ、悩みつつ行動を起こす理由を自分の中に持ちたい。
とにかくやってみれば、と声をかけたい。
自分から、自分に。
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