習慣になってくる。
繰り返し自分に、そして誰かに語ってきた言葉が自分の柱として強固になっていくのを感じる。
良心とは、徳(アレテー)とは。
そういった自分自身への問いかけは、自分を苦しめるだけだと思っていたがそうではなかった。
むしろ、自分を救う為の、自分を大切にするための入り口であり、その入り口をくぐってこそ、初めて自分以外の人間と接することが出来るのではないかと思う。
初めからぶっ飛ばしている。
私は頭が悪いんだなと思う事が多々あるが、君は頭が悪いと言われた記憶はない。
自分に一番頭が悪いと言っているのは自分であった。
どこかでこんな文章を見たことがある。
「君も僕も本当に愚かな人間だな。」
自分の自虐に他人を巻き込む言葉を言う人物に対し、仲間にされた相手はこういい返す。
「私は私を愚かだと思わないし、あなたも特に愚かだとは思わない。けれど、あなたにとってあなたは愚かな人間なんだね。」
僕は自分が頭が悪いと思った時は、必ず誰かと比較をしている。それをエビデンスとして、強く自分を卑下する。
そうして、自分に期待する事を抑制し、希望を忘れる事で、仕方ないと現状の問題を放棄することに成功している。
何年も何年も繰り返し刷り込んできた自分へのラベル付けは、他人にはどうでもよすぎる事で、なんなら君は頭がいいとさえ言う人間もいる。
僕は知った。
良いだとか、悪いだとかを判断する意味はない。
あるのは、やるべきこと、やろうとしていること、そうした目の前にある取り掛かることのみである。
今日であれば、自分の思ったことを書くことであるし、読みたいと思った本を少しでも読むこと。
美味しいものを食べること、
集中することにこだわること。没頭できること。
それをしている自分が悪いとか良いとか、どう思われるかとか、そこにエネルギーを消耗するのは意味がない。何に意味がないかというと、記憶に残る事がない。発見もない。
積み上がっていくものがない。得られるものがない。
ゆえに私は私のやろうと思ったことに集中する。
集中するために考え、行動をする。
集中するために、睡眠は切っても切り離せないものらしい。
ちなみに今日はやろうと思ったことは達成できた。頑張った。誇らしい。
読書も楽しんだ。
ん~~~~~
もっと簡単に書けんのかい!俺!
大したことしとらんわい!
少しやるぞーって感じで仕事しただけで、結局残業しても終わらん無能ぶりを発揮してるし、家に帰ったら読書で現実逃避を楽しみましたでいいのに。
自分のできることは精いっぱいやった達成感は誰に認められなくても自分を癒してくれるという思いを残しておけるのは書いておいていいことだな。うん。
深刻に捉えすぎなんじゃ我。
おやすみなさい。
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