記録/2021.03.28

日記

母校である小学校が廃校になるという知らせを受けた。

今年度で最後らしい。

昨日は閉校の式典が行われ、今日は校舎の一般開放日だった。

私が一年生の時に担任だった先生が現在この学校の先生として赴任されているらしいとの知らせも同時に受け、これは会っておかねばならないと思い、重い腰を上げてはるばる京都から静岡へと足を運んだ。

久しぶりに実家に帰り顔を見せるのも親孝行になるかと思ったし、猫にも会えるのは嬉しかった。

母校はとは関係がないが、私もこの歳になって(といっても歳だけで精神面も行動もまるで子供だが)子を成し、ここまで育て上げた事実に畏敬の念を抱かずにはいられない。

苦しいことばかりで、この世に生んでくれたことに感謝をすることが出来ない親不孝者だが、多少なりとも楽しい事や好きな事があるのだからそれを伝えられたらいいかなと思った。

とりあえず元気そうでなによりだ。お互いに。

さて、母校の一般公開だが、さすがに多感な幼少期を6年も過ごした校舎だけあって色々と思い出した。

特にエピソードとして語ることも出来ないほどの、些細な一瞬の景色がフラッシュを炊いたように思い出された。

記憶にあるという事は強く印象に残っているという事だろうが、その記憶風景には自分が写っているのが面白かった。

僕は自分の見た風景だけではなく、自分を客観視した視点で思い出を記憶しているらしい。

各教室、職員室、保健室、音楽室、家庭科室、理科室、会議室、体育館、グラウンド、胸を突く懐かしさが確かにそこに自分がいたことを思わせる。

色々変わっている所に気づくことも面白かった。

耐震工事で梁が増えていたり、黒板がホワイトボードになっている教室があったり、全室エアコン完備されていたり、コンピューター室と図書館が一部屋になっていたり、壁に知らないキャラクターが増えていたり。

20年ほど前の事だと思うと感慨深くなるが、最近は紀元前のことまで考える機会があったから時間という概念に対して妙な感覚を覚えた。


ああ、書くのを途中で中断してはいけないな。

うまく続かなくなる。

ともあれ、この帰省はしてよかった。楽しかった。

懐かしさを感じられる幸せを感じた。

たぶん、自分の良心にある程度素直に従う事が出来たという事だろう。

母校を思う気持ちなんて、そんなにないつもりだったけれど、結果としてこの距離を決して安くない移動費を使って物思いにふけりに行ったわけだから、それなりにあったということだ。

それが嬉しい。

先生は御年68になるとおっしゃっていたが、僕より元気だった。

目の前のことにしっかり意識を向けて向き合っているから、行動につながり、行動が次の行動を呼ぶような勢いのある先生だと思った。

僕が大いに見習うべき素養だと思う。

知識としてその姿勢が大切だと知っているだけでは、なかなか意識出来ない事でも、尊敬できる人だったり好きな人だったり、人に興味をもつことで自分もそうなりたいと思えたりする。

そういった面も含めて会いに行って良かった。

帰り道、新幹線の車窓から見える景色の移り変わりがそのまま僕の人生の移り変わりを見せているような気がした。

静岡から京都まで1時間。たった1時間で、あらゆる場所のあらゆる景色が窓に映し出され去っていく。

それは、あまりにもあっというまで、あっけにとられてしまう。

母校で閲覧用に置かれていたアルバムを開いたときに感じた、今までの歳月のあっという間、新幹線での移動のあっという間がまるで同じスケールに感じた。

それはとても不思議な感じで、時間というものに正確さなんてものがあるのかと疑いたくなった。

自分が生きていた時間をどう正確に感じることが出来ようか。

アルバムを開いたとき、過去から今までの時間が伸縮する。

アルバムを見ている時は今であり、過去でもある。

今を過去にして未来を見たり、過去を見たり、今を見たりする。

アルバムは楽しい。

コメント