絶好調だ。
ふと、命の危険を感じた瞬間が、これまで何度あっただろうと考えた。
一度だけ。
まだ川に入るには早い時期、そう、来週がプール開きという時期だった。
体育の水泳を待ちきれないほどに、やんちゃで天真爛漫、怖いもの知らずだった小学4年生だった僕は、地元の同じく怖いもの知らずの友達と一緒に川へ遊びに行った。
太陽が出ていれば、少し肌寒いなんてことはお構いなしに、意気揚々と水着に着替えみんなで一斉に川へ飛び込んだ。
毎年、地元の子供が集まり賑わう淵は、まだ時期が早いと言っているような緑色で底は見えず、覆いかぶさる木枝の影がさらにその緑を暗くしていた。
溺れたという思い出が、いっそう淵の色を暗く記憶させているのかもしれない。
死ぬところだった。
腕っぷしの強い同級生に引き上げられなかったら、僕は底の見えない川底へ引きずり込まれ、そして木の陰で暗くなった淵の水面に背中だけ出し、流れていっただろう。
腕っぷしが強いとはいえ、身長が10センチばかり大きいだけの小学生が引き上げられたのだから、浅瀬からそう遠くはなかったのだと思う。
はたから見たら大したことのない出来事だったかもしれない。
でも、僕は確かに死を感じた。
足元が水とは思えないほど弾力のある粘土みたいになり、僕の体を真っ直ぐ垂直にに引っ張っていった。
上半身の水は逆にサラサラで、つかみどころがなく、どんなにもがいても手の平をすり抜けていった。
怖かった。
本当に命の危険を感じたのは、その一回きりだ。
それから、20年弱、本当に命の危険を感じたことは無い。
あえて、それを幸せだとは言わない。
本心から幸せだと思う事は出来ないから。
ただ、幸運な事だとは思う。
そしてその幸運は続いている。
命の危険をうまく想像できないほどに、その境地からは程遠い世界に生きている。
なのに、苦しいと感じる。不安に感じる。
それはどういうことか。
僕は今安心感に溺れているのだと思う。
安心感という水の中では、命の危険は感じないが、泳がなければどこかも分からない所へ流され沈んでいくのだ。
本物の水の中では、水面という最終的に追い求めることになる目標地点がある。
しかし安心感という水の中では、その目標地点は無い。
だから、目標地点を定めなければ泳いでいくところも無いのだ。
泳がなくても生きてはいける。それは安心感という水の中だから。
泳がずとも自分の水面を持ち、その水面をぷかぷかとたゆたい続ける人もいるだろうし、遠く高く目標地点を決めて力強く泳ぎ続ける人もいるだろう。
あっちこっちに目標地点をもっていて、あらゆる所に泳ぎ回る人もいるかもしれない。
しかし、何も持たないで泳ぐこともしなければ、安心感という水の中で、誰かが泳いで作った流れにさらわれたり、ただただ沈んでいく感覚を味わう事になる。
深刻な人ほど、沈み。楽観的な人は、浮く。
そういう事だと思う。
僕は、安心という水中で溺れている。
色々な人が、いろいろな流れを作るから、その複雑怪奇な水流に溺れている。
それでも生きてはいける。
そういう世界だと思った。
泳ぎたい。どこに向かうかもわからずとも、泳ぎ、流れを創りたいと思った。
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