本当に理解をしたければ、教えなければならない。
少なくとも自分自身に問い続けなければならない。
私はどのように理解したのかを自分自身に説明できなければならない。
自分自身に説明をできてそれに納得していれば、何も問題はない。
そこにあるのは安心安寧、極楽浄土である。
納得が出来ておらず、しこりが残るようであれば、それは人生の借金となる。
そして、それは癖になり、塵が積もり、取り返しのつかないことになる。
それは理解無き感情の激流に飲まれ溺れるように生きる事を意味する。
仕事は完璧を目指すより、終わらせることを最優先にせねばならないが、仕事以外の時間においては自分の関心について妥協してはならない。
説明無き理解などありえない事を肝に命じる。
そして、自分自身が理解できたことは、他者にその理解を波及させていくべきである。
何故なら自分自身の理解はあくまで自分だけのステージであり、他者が乗れるステージとは限らないからだ。
他者までも同じステージに乗せようとすれば、ステージはより広く盤石にならざるを得ない。
それは、自分自身のステージがより強固になることを意味する。
強固なステージには人が集まるものだ。
人が集まればにぎやかに華やかになるものだ。
もはや自分だけのステージではなくなるかもしれない。
皆のステージに、もしくは誰かのステージになっているかもしれない。
しかし、気づくだろう。
ステージはいくつ持ったっていいのだという事に。
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