創ることには目的があるとするならば、
世界には目的がある。
僕には目的がある。
基本的に作られたものは、評価をされます。
基本的に良い評価を得られるものは、理解されるモノです。
全く理解されないものは評価すら与えられないかもしれません。
それ自体が評価ということになります。
そこで問題となるパターンがあります。
自分自身が理解できない創作物を、他者が評価した場合です。
それは崇高なパターンだと思います。
モノを生み出した人と、その価値を生み出した人です。
私は世の中に、このパターンが大いに溢れていると思います。
どっちが偉いというわけでもありません。
現実は価値に気づいた人や価値を付加した人が第三者からは評価され、生み出した人が割りを食う形になりますが、これが相互作用という現象の一部です。
戯言、しかし、価値がある。
どこに価値があるのか。
それは、言葉だけに宿るものでも、もちろん物にだけ宿るものではない。
消費に怯える必要はない。
一瞥される、ただそのためだけに生み出された商品もあるのだから。
日ごとに、どこか浮世離れしたというと言い方が良すぎるが、いわゆる普通とはかけ離れた視点と論調、言葉遣い、稚拙と幼稚、接続の悪さが出てきているかもしれない。
そう思うのは何故か。仕事に支障をきたす程に、口から言葉を発する事に不自由を覚えてる自覚があるからです。さらには、他者の言葉を理解するのにも時間がかかる気がします。もとよりその傾向は強く持っていたのですが、ごまかしが効かなくなってきたようです。
いえ、もしかしたら、全くそんなことは無く。ごくごく普通に、むしろ平均以上に理解力は持っているのかもしれないし、話せているのかもしれません。
少なくともその判断が出来ないくらいには、どうにかしている。いえ、もともとかもしれません。
このタイピング時間はほとんど無の状態になれて、おそらくは楽しいのですが、健全とは言えないかもしれません。
健全とはなにかということになりますが、おおよそ見当もつきません。
生きているならいいと両親は言います。
では、行きましょう。
今日と明日のまどろみに。
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