今日も良い天気だった。
昨日よりかは雲が多かった気がするが、雲の流れにムラがあったというだけで、太陽の射す時間は十分にあり、汗の噴き出す夏晴れだった。
神戸三宮に足を運んだ。
神戸自体はよく遊びに行くけれど、立地的にいつも結局行かずじまいで後回しにしていた、北野異人館街についに訪れる気になった。
明治時代に欧州から日本に来訪した貿易商の方々のリッチな住宅が並んでいる街だ。
その見た目から、異人館の客寄せモチーフとなっている、風見鶏の館と、そのすぐ近くの萌黄の館の中を見物した。
異人館はもっとたくさんあるから、多くを見て回ってもよかったが、この二か所に留めたのは夕方の早い時間には家に帰って本を読みたかったのと、観光地に必ずあるけれど、ほとんどの人がしっかり読んではいない歴史的な説明パネルをじっくり読みたいからである。
異人館の周りにはちらほらとカップルと、1人の女の子を囲んで写真を撮るおじさん達がいた、何かの撮影らしかった。
入館料を払ってまで異人館の中を拝見している人は一人もおらず、貸し切りだった。
異国情緒と言ってしまえばそれで済むのだけれど、内装を洋風にしているお店とは全く違った趣を感じた。いたるところに年季が入っていると感じる痛みやくすみがあるという事が大きいのだろうが、飾られている当時の写真や、部屋の用途(夫人がサロンを開いていただとか、お客を宿泊させる部屋だとか、子供部屋だとか)を説明した文章から、ここで人が生活をしていのだとリアルに想像できたということも影響しているはずだ。
一階こそ、貿易商として客を招いたりサロンを開くことから、細部まで装飾が行き届いた豪奢で絢爛な内装だったが、二階に上がると家族の日々の生活を営む比較的質素な内装と作りで、その人間味ある趣向の変化が質実剛健と言われるドイツ人の性質を表しているようで生活のリアルさを物語っているように思えた。
年表を眺めるのは面白く、その場に何分立ち続けていただろう。人の歴史は自然の歴史に並んで面白い。平々凡々な人生も、そこには少なくない苦悩とささいな喜びが必ずあったことは想像に難くないが、やはり、何かを成し遂げたり、やらかしたりして後世に語られる人生はスリリングで、第三者として見る分には面白い。その、ぶっとんだイベントの連続は、まるで映画を見ているかのようだ。
異人館の感想はこれくらいにして。
六甲山のアイスクリームを食べた。店員さんが可愛かったのでついつられてしまった。
風見鶏の館のすぐ左にある、北野天満宮は階段を少し上ったところに社があり、そこからは海が一望とはいかないまでも、神戸の街並みを風見鶏の館とセットで見ることが出来る。セミの鳴き声と、風鈴の音が夏のまっさかりを唄っていて、木陰になっている石垣に座り、かすかな風を受けてその音を聞いていると、すぐそばに異国情緒があることを忘れて、わびさびなんて言葉を思い出す。
二礼二拍手一礼。世界平和。日本人であることを思い出す。
また来るから、今日はここまで。
食事も旅も腹八分がちょうどいい。
楽しかったけど、少し物足りないくらいにしておき、また来たいというモチベーションを残して帰る。
そうすることで、楽しかったという感情と、また行きたいという楽しみが残り、その後の時間が華やぐ。
無理をして回ろうとすると、疲れや焦りから感情をおいてけぼりにしてしまい、行った見た回ったという事実だけが残ってしまう。さらに、一応行ったことがあるしと考えて、二度と訪れることは無い。結局、楽しかったという記憶はあまり残らない。
これは、僕の経験則であって、僕の体力の無さからくるものなので、他の人に押し付けないようにしよう。あくまで、僕による僕の取扱説明書である。
家に帰ってからは、読書をした。
読みかけのミステリーで、最後まで読んだ。そこだけが、おもしろいポイントというわけではないのだろうが、ミステリー初心者で特にこだわりなく読んでいる僕は、やはりどんでんがえしがあると一気に面白いと思う。慣れてきたらミステリーの醍醐味が分かってくるのだろうか。
夜は友人に今日の活動内容を聞いてもらった。話を聞いてくれる人がいるのは有難いことだ。
僕の興味関心はみんなと少しずれたところにあるのかもしれない。それか、僕がその愉悦を誰かと共有するのが下手なのかもしれない。そもそも僕は共感を求めていないのかもしれない。ただただ、寂しいというだけで、自分勝手に自分が楽しいという話をしているのかもしれない。
考えすぎないことだ。友人を信頼するのだ。
僕が友人と話したいと思ったのは、話を聞いて欲しいと思ったのは事実で、少なくともその点で僕は友人が好きだ。
しかも、その方たちは興味が無いことは興味がないと面と向かっていってくれるではないか。それは、嬉しいことだ。
僕は友人の言葉を信じよう。何も言われないのに、勝手な妄想で距離を置くのはいいかげんに、いいかげんに、いいかげんにやめなければならない。
相手が楽しいと感じるだろう話を想像し、実際に話さないのであれば、それは、僕が相手に不誠実という事だ。相手に楽しい時間を与えられなくて申し訳ない?ふざけるな。
与えたいと思っている限り、与えられるまで、相手に拒否されない限り、トライアンドエラーだろう。相手に楽しいと思わせたいのは自分なのだから、相手がお金でも払って、僕に面白さを要求したか?してないだろう。だったら、どこまで行っても。与えたい、与えられないというのは自分の問題だ。申し訳ないと言うのは、それが自分の問題であることを放棄し、相手にその重荷を背負わせる恥ずべき行為だ。
自分への期待を、はなから諦めて、なおかつ、相手に罪を擦り付ける愚劣な行為に他ならない。
心せよ。
隣人を愛すとは、自分との闘いである。
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