我慢は煩悩の一つである。
僕は我慢強いとは思わないが、考えても仕方のない事で悩み悶える事に積極的に取り組んでいるようだ。
現実に問題はいくつも抱えているはずなのに、それらの排除には一切取り組まない。
問題には2種類ある。
取り組めば解決できる事と、取り組んでもどうしようもないことだ。
僕は取り組めば解決出来ると思える事には一切興味がなく、取り組んでもどうしようもない事に夢中なのだ。
要するに余裕をぶっこいているわけだ。
現実に大した問題を抱えていないということでもある。
それか、僕に問題意識が無いだけで、実は放置しているそれらは、僕の人生を大層蝕んでいて、もしかすると崖っぷちなのかもしれない。
結局のところ、分からないというのが正しい。
分からないけれども、進まねばならないと感じる時、どうすれば動くことが出来るか。
人のせいにすれば、比較的楽に動くことが出来る。
こうすればいいとあの人が言った。あの人がこう言っていたから、そうした。
その結果が悪くても、人に文句を言うというはけ口があらかじめ用意される。
それが担保となり、いくらか行動できる。
成功したら、全て自分の手柄、自分の選択を称賛する。
僕はそれが出来ない。
怒ったり、文句を言ってストレスを解消できないのが僕の人間としての欠陥である。
道はひとつだ。
自分で決め、信じて、進むこと。
僕は要領がよくない。
一歩一歩血しぶきをあげる事になるだろう。
それが怖くて、何もしていない。
何もかもが怖くて、どこにも踏み出せない。
それが、僕の休日。
ああ、ダメだ。こんなことを書いていても仕方ない。成長が無い。
自分の内面を書くのは楽しいが、そこから気付きや発展は少ない。客観的に自分を見つめる事にはならないからだ。結局は自分と対話しているだけ。文字情報として残るだけで、何かを改善する行為ではない。
今の思考ではなく、物質的な僕の身体が何をしたのかを書くべきだ。そして、その行動についての思考を付随させる。
現実の行動と感情をセットで書くのがいい。
何をいまさら、当たり前の事だ。
慣れていないと、行動を文字化するのがスムーズに出来ないことに気付いた。
昨日やったこと。
行動1. アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」を読了した。
珍しくミステリーを読んだ。
面白かった。
ミステリーは屍人荘の殺人とmedium、あとは氷菓シリーズくらいしか読んだことが無い。
これらを同じミステリーとしてくくっていいのか分からないが、僕はこれらをミステリーというよりは、降りかかる謎を通しての登場人物の振る舞い、関係に親しみを持ち、キャラクターを楽しんでいるという読み方が強く、謎をメインに楽しんでいるわけではかった。
アガサクリスティーは本格派推理作家としてあまりにも有名なので、本格ミステリーを前にして純粋にミステリー自体を楽しむことが出来るのか不安でもあったが、あっという間に読み終えていた。
なんというか、ミステリーとして無駄がなく洗練された印象だった。
ミステリーを何も知らないのに、ぶったようなことを言ってしまったが、そう思ったのだから仕方ない。
過不足がないという表現もしっくりくる。
それが読みやすさにつながっていたと思う。
そう、とても読みやすかった。
読みやすかったけれど、謎は解けなかった。まあ、解く気も無かったけれど、それでもこいつが犯人かなーとか、実はこういう事でこういう展開になるのではとか、ちらと考えたりはする。
ミステリー読みは、何を重視して読むのだろう。自ら探偵となり、作家の用意した謎に作家の用意した文字情報から推理し、答え合わせをするのだろうか。そして、反省会。読み直して、伏線や証拠文を洗うのだろうか。
推理可能かどうか、僕はたいして気にしなかったけれど、重要な点だと思う。
あー、確かに!なるほど!となるか、はぁ、それは想像つかんわ!となるのかでは、その作品自体の印象ががらっと変わる。
その点では、僕はとてもそんな想像は出来ないと思ったけれど、それでも、答え合わせで憤慨したりはしなかった。むしろ、気持ちが良かった。謎が分かること自体が気持ちよく、それが納得いくものであれば、わだかまりは残らない。全てが分かって、おしまい。すっきり。
ミステリー好きの人には、怒られるかもしれない。推理が好きな人とは、相容れないかもしれない。
それでも、僕はミステリーの楽しみを1つ知った。
謎が解ける。この一点をもって、他の小説にはない読後感を得られる。
小説は、面白い。
他には、買い出しとジョギングと友人との会話をしたが、今日はもう時間切れ。
結局、読書とその感想では内面を書いているだけに近いけれど、まぁ、人生捕まえて不安がっているよりよっぽどいい事を記録した気がする。
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