記録/2021.09.28

日記

仕方がない。

だって、好きなんだから。

他でもない僕が好きで、僕だけが好きなのだから。

物事は共有をすることで充足感を得ることが出来るが、共有が出来ないと孤独となる。

だからといって、好きな物事を無関心無用の長物とするのは、無理なことである。

好きになってはそれを恨む事にもなり得るのがこの世にある不幸の一つだ。

その場合どうするのか。

どうするも何もない。想い続けて生きるのみである。それを手放し生きるには、狂うしかない。

狂ってしまっては生きているとも言えないから、結局は苦しみ続けるしかない。

しかし、それは絶望とは程遠く、むしろ希望的な苦しみなのだが、その前に書いておきたいことがある。

好きだとか、想いという言葉を使うと、短絡的にほれたはれたの恋路を思い浮かべる者が多い。

それは当然の事で、そうでなければ気持ちが悪い。

人と人との関わりがいつでも問題となる世界で、自らの恋路は事件となるも、人の恋路は常にエンターテイメントであった。

楽を欲する人間という生き物がそのエンタメに飛びつかないのは、異常事態である。

だから、冒頭の文章を見て、私に春が来たと想像するのは当たり前のことだが、残念なことに私は異性に執着するという趣味からはいささか縁遠い素朴な関心をもって、この甘い言葉を用いた。

さて、希望的な苦しみとは何か。

実のところ、好きだと思う感情と、孤独からの苦しみは、全く別問題として考えることが出来る。

好きだと思うと同時に苦しみを感じると思えるかもしれないが、同時はありえない。

孤独を苦しんでいる時間は、好きであることに集中していない。

つまり、好きな事に没頭している時間は一瞬で、後の時間は孤独に意識が向いていて好きな事を考えられていないということ。

とどのつまり好きな事をしている時間は一瞬なのだ。

私は、薄く、回りくどく、そして絡まるように言葉を紡ぐのが好きらしい。

名言はえてして短文で、インパクト強く、エッセンス的に大事を表現する。

普遍的不朽的に感じられ、有り難いものに思える。嫌いではない。

しかし、そのままでは個性が無く、つるりと綺麗で滑り落ちる感じがする。

言葉自体が洗練されすぎていて、弾く。言葉は覚えやすいが、浸透しない。

だから、自分の言葉で、縛って絡めて離れないように、自分の中にあるもので同じようなことを思って、それでやっと身についてくる。

名言を身に付けるのは、楽ではない。

要するに、今日覚えこませたかったのは、没頭することが幸せであり醍醐味であり、成長であるということ。その為の工夫をすること、やること。

それを言いたかったし、書きたかったし、考えたかった。

ええ、おかげさまで私は今日もご機嫌である。


名言はその言葉が残っていて、受け継がれていけばそれでいいものであって、ふとした時に思い出したり、もしくは反対に座右の銘として心に刻んでおくというものである。

決して、他者に押し付けたり周りに言いふらしたりするものではない。

名言は好きだが、名言を言う人は信用ならない。ああ、気を付けよう。

誰も見ない、ネットのはしっこに書くのは、言いふらすことにはなるまい。

騙されないで愛そう愛されようなんて、ずいぶん虫のいいことだ。

「女生徒」/川端康成

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