中秋の名月は雲に隠れて見えず、沈んだ気分で床に就いた日の翌朝は、カーテンを開けると薄いピンクとオレンジの霞みがかった透けるような雲が優しく光っていた。
朝焼けは夕焼けのような鮮烈さと情熱は無いけれども、とにもかくにも優しいのだ。
夕焼けの燃える赤と朝焼けの淡さの違いの理由を科学的知見から一応は知っているけれども、この理由を思い出したところで美しさの感慨が損なわれるばかりであった。
それはやはり無知ゆえなのである。
もしくは創造力の欠如か、挑む気力を損なっているからである。
それでも自然のほほえみは、その理詰めの人間をあざ笑ったりはせず、癒しを届けている。
中秋の名月の日はずいぶん前へとさかのぼる。
なぜ、今中秋の名月を書いているかと言えば、中秋の名月という言葉を使いたかったからである。
書きたいこと、表現したいこと、そんなものは無い。
諦めが肝心、諦める事で行動できる。
そんな人間もいる。
とりあえずの完成がいかほどの価値を持つのか、僕は社会にでるまで知らなかった。
納期に追われ、納期を憎み、納期のせいにすることばかりの日常だが、一応の完成をもって無慈悲にジャッジを下されることが、物事を進めていくことをよくよく思い知った。
納期なき仕事は永遠に完成を見ない。
つまりはそういうことだ。
駄作を量産する苦しみから逃げていては成長も納得も無い。
なんてことはない。
これもいつもと同じ、当たり前で月並みな陳腐で良く知られた教えを実行できていない人間の現実逃避だ。
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