朝、目が覚めて少し身じろぎをすると、洗いたてのシーツから洗剤の香りが立ち上った。
横になったままカーテンを開き、淡いピンクの朝焼けを見とめて、慨嘆し、頭を起こす。
今日も仕事だ。その前に生きている、生きて何をするのか、仕事だ。
まだ、僕は新人とみられる立場だ。
まだまだ知らない事、分からない事だらけで、毎日なにかしらの壁にぶつかる。
それがなんだというのだろう。この世界は知らない事と分からない事で溢れているのだから、仕事の中で分からない事や知らない事の一つや二つや三つくらいどうってことないだろう。
それに世界の分からない事に比べたら、なんと簡単な事か。
むしろ、仕事から問題を解決する方法、アプローチの仕方を学んでいる気がする。
それを私生活の方に逆輸入できるのではないかと思った。
仕事は、私生活のヒントになる。
問題を解決する方法というか、心構えというか、手順というか、段取りというか、考え方というか、それらを私生活に使おうと思った時に気づいた。
私生活の中に具体的な問題を認識していなかったのだ。
欲が無いと言ってしまえばそれまでだが、腐っても人間、欲求をまったく捨て去ることなど出来ない。
意識的に具体的な問題をつかみ取らない事には、欲求を起源とする漠然とした満たされなさに苛まれるだけである。
問題を解決する。その手法は、仕事から学んだ。
あとは、取り掛かるべく問題を認識するのみである。
とりあえず、毎日日記を書くことも具体的行動として実践している事の一つである。
駄文だとしても、具体的な結果物として残るこの行為は嫌いではない。
僕は絵を描かないし、楽器も弾けない、音楽をつくることも無ければ、本を書くことも無い。
僕は結果を持たぬ日を幾日と過ごしてきた。
そこに、不満がある。
僕は話す事もいつしか臆病になってしまった。
アウトプットは書くことしか残されていない。
書きたいことを書く為にも、書くという行為への慣れが必要である。
その練習と言ってもいい。自分の頭で言葉を紡ぐ訓練。本を読み、勉強し、音楽を聴き、映画を見ればおのずと紡がれる言葉は変化してくるはずだ。
人間は環境の動物である。
自縄自縛になってはいけない。
少年よ大志を抱け。
こんな風に。
最後の一つは取ってつけたようだ。
さあ、明日の仕事はどうしてやろうか。
こういうスタンスでやっていると、お叱りや注意が有り難く感じるから不思議だ。
しかし、良くない。何が良くないかといえば、怒っている相手が苦しそうなのだ。見るに堪えない。
憤り。それを目の前の無力な一人の人間にぶつけることで快楽を得ようとするその余裕のない有様を見るのは嫌だ。厭だ。そういう目を見ると苦しくなる。
その苦しみは僕が取り除けるものではない。自分で解決するしかない。
僕に出来る事はやる。そしてやろうと思ったことはやる、やってみる。
それでいい。
不思議と周りも助けてくれる。不思議と。
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