記録/2021.12.03

日記

今日も今日とて何かを書かねばならない。

例えば書くことを、朝昼晩に食べたものと通勤途中についついチラ見してしまった可愛い女の子について書くと決めてしまえば、何を書こうか悩むこともなく書けるだろう。

よっぽど、可愛い女の子を目撃したというのでなければ、ものの数分で書いてしまえるはずだ。

ただ、私は私にそれを許さない。

思い出すのは、何年生だったか、小学生の時の宿題の日記である。

田舎の学校で人数も少ないからしっかり1年間分の束にされた日記を学年の終わりに配られた。

ほとんどが晩ごはんの記録であった。

あれは、私の実家の食生活の暴露資料だ。

「今日の晩ごはんは~でした。」から始まる一連の文章は、ほとんど形式化されていて、可愛げもなく、ただただ晩ごはんの資料である。

私が何を食べたかのみを知ることのできる資料である。

つまり、形式化するのは楽だけれど、面白みのない結果になるという記憶から、書くことを決めてしまいたくないのでした。

そもそも、毎日記録を書くなんて宿題は自分が自分に課しているだけで、強制されてもいなければ、誰かが待っているわけでもなく、ああ、これが自縄自縛というやつである。

太宰治のダス・ゲマイネにこの言葉を見たことを思い出した。

馬場の語彙と語りが好きである。卑屈と希望と口先だけといった所が好きである。

私は反面教師にしたいと思ったが、残念ながら下位互換といった所である。

イケナイ。カタカナで書くと何やらいやらしい。

いけない。

ネガティブはエネルギーでもあるが、周りからドレインする作用があるから、あまりよろしくない。

生気を周りから吸い取ると、将来枯れた草原のど真ん中にたたずむ孤独な人になる。

望むところだ。

私はいい。ただ、知人の平穏と喜劇を願うばかりである。

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