寂しいからといって、他人と一緒にいたってろくなことはない。
そういったのは、ペシミズム哲学の代表的存在のショーペンハウアーである。
過去の経験から言って、この言葉には首肯せざるを得ない。
なんと、なんと、修羅の如き世界であるか!
私はかの哲学者のように、現状の理解に努めたり、言ったもん勝ちの闘争したり、逃げたもん勝ちの逃走ができるほど、頭の回転は速くないし、柔軟性もない。
唯一あるとすれば、道化を演じるという、身をすり減らす処世術をかろうじて身に付けているのみである。
私は長生きできない。
これは何も、より長い時間、地球上に存在するという意味ではない。
私が私として存在する時間がどれほどであるか。
たとえ80まで生きようが、そのほとんどを他人の思想の奔流に押し流され生きたのでは、私として長生きしたとは言えまい。
私は短命である。
諸君、勘違いしてはいけない。私は悲劇のヒロインぶって同情を誘いたいのではない。
この筆運びをもってして、純粋に楽しんでいるのである。
残念なことに、21世紀の現代におかれましては、筆を運ぶ機会はどんどん減っておりまして、この文章ももっぱらキーボードのタイピングによって綴られているものになります。
筆を運ぶという経験、中指にペンだこができるという経験も数年後にはジェネレーションギャップという受け入れがたい現実として目の前に立ちはだかることでしょう。
ああ、いやだ。と、その時は道化を演じる私が言うでしょうが、実のところ、楽しんでいるでしょう。
時代の移り変わりが早いということは、それだけ混乱とストレスがありましょうが、一生同じ神に仕えるというのも退屈ではないでしょうか。
そう思えば、何を信じればよいのやらの混沌は、ミラーボールに照らされしカラフルできらびやかな世界であり、刺激に満ちた極彩色の世界。
そして、私たち人間にはそれを楽しむほどの情報処理能力を持ち合わせていなかったというだけの話かもしれない。
結局のところ、というマスターキーを皆が求めるが、いざマスターキーを手に入れたら、退屈な世界が始まるだけだ。
退屈な世界は地獄と言い換えて差し支えないだろう。
だから、これでいい。
分からない。それは、楽しみの源泉である。
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