記録/2021.12.15

日記

いったい誰のための、何のための記録であるか考えたことはあるか。

ある。

過去の記録を遡れば、その類の思考が散見されるだろう。

それではなしに、今この瞬間に、汝、何の為に記録するかと問われたならば、それは今の為であると答える。

わざとらしい口調や、もっともらしい言い回しを楽しむためである。

ここ以外で意見を述べる場というのは大抵、人がいる。

そこで私は、このような口の利き方はしないし、できない。

正解か不正解かどうでもよい、自分の意見をわざわざ表面にだすこともない。

人はそうそう変わらない。

それを念頭において、私は、およそ一年前の記録を読んだ。

なんのことはなかった。

そこには確かに私の思考が記録されていた。

その時の私と今の私は、考え方も考えていることも、ほとんど変わらない。

むしろ、過去の方が不思議な新鮮味を持って感じられた。

私という人間はこういう人間なのだと思った。

仕事はまじめにやっていたら、ある程度できるようになっていた。

まじめに考えて行動し、失敗して、次の仕事をする。

できるようになる。

当たり前のことだ。

当たり前の結果が、眼前にある現実だ。

もっと現実を観察したら、より当たり前の事実に気付けるかもしれない。

ちょっとなに言ってるか分からなくなってきた。

本日の活動限界が近いようだ。

明日が来ないとしたら、この記録になんの意味があるか。

明日が来ないことによって、初めて意味付けされるかもしれぬ。

その可能性の為にというのは、嘘くさい。

現代のごくごく一般的な、平々凡々のサラリーマンの思考なぞ、どこに出しても恥ずかしい。

残すべきでない。

だとすれば、やっぱり、このタイプしている瞬間が最も私に意味がある。

地産地消。へたくそだ。

上橋菜穂子さんのような、繊細で柔らかい文章でもって、私の目にうつる美しき世界を描けたらと夢想する。

真剣なのだ。焦っていない。

ゆとりと情熱をもって向かい合わねば、自分のものとして理解できない。

落ち着こう。

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