扼殺という言葉を知った。
「やくさつ」とルビが振られていたので、薬殺を連想したけれど、わざわざ伝わりにくい漢字をあてたのではないだろうと考えて、大人しく調べた。
義務教育の頃、国語辞典、漢和辞典を(親が)買わされ、国語の授業でたびたびその分厚い本の薄いページをめくったことを思い出した。
国語辞典という言葉を思い出すのに少し時間がかかった。
それくらい検索という行為が当たり前になったんだなと改めて思う。
何かを調べようとしたときに、ネットという手段がない時代に僕は生まれたことを、今まで忘れていた。
「扼殺」というのは、手によって頸部を圧迫することで死に至らしめる殺害方法の事を言うらしい。
ティリオンがシェイを殺したシーンを思い出したが、あれは扼殺ではない。絞殺だ。
こんなどうでもいい知識も、生きていれば蓄えられていく。
どうでもいいと言ったけれど、こういう連想からイメージが起こり、そのイメージがどうしたって世界を創っているのだから、何か目的とする思考の道筋を決めない限り、どうでもいいと判断することに意味はない。
むしろ、漠然とどうでもいいと思ったことの方に意味があって、なぜどうでもいいと思ったのかというところを考えると、逆に何を求めているのかが見えてくる。
扼殺という言葉を知ったことと海外ドラマのシーンを連想したことについて、どうでもいいと思ったのは嘘である。
その知識の習得と連想を、私は楽しんだ。
どうでもよくはない。これが日常だし、これがないといよいよ何をして生きているのか分からなくなるレベルで困る。
では、なぜどうでもいいと言ったのか。これは、完全に他者を想像して出た言葉である。
私ではない全ての人には、この知識と連想はどうでもいいだろうと想像して、ついて出た言葉である。
他者に対して、私が悲観的で寡黙なのは、この思考の指向の為であると推測できる。
自分の思考、行動、興味に価値を感じるのは私だけであるから、これを表面に出したところで、いい影響を周りに及ぼすことはない。だから、半ば諦めといじける気持ちから、どうでもいいと自分の興味をディスった。
どうでもいいですよね、という理解を他者に示して受け入れられようという魂胆か。
ゴマすり根性、それが私の生き方か、嫌だな。
ま、とりあえず生きていればいい。
身体が衰え、時代がどう移り変わろうとも、脳に蓄積される情報は増えていく。
脳の仕組みなんて知らんし、忘れるという機能もあるとはいえ、それは真だとしよう。
思考の材料はどんどん増えていく。パーツはどんどん増えていく。
つまり、出来ることは増えていくはずだ。演繹的に真と言える。
ただ、パーツだけをゴミのように蓄えているだけでは、面白くないだろう。
集めたパーツで何が出来るかを考える癖、それがあれば、絶望なんて無縁の発明家になれる。
ちなみにエジソンに憧れて、発明家になりたいと思ったことはない。
言葉のあやってやつだ。
これで15分。
考えたことをつらつら書くだけで、何も成果というものを期待して書かなければ1000字くらいあっという間なんだなと思う。コスパ的にも悪くない行為だと思う。
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