記録/2022.04.27

日記

「控えめに言って」と切り出しておいて、ある方向における最大級の言葉を用いる表現はあまり好きではない。

そのインパクトの強さと、汎用性の高さから、常套手段となってしまった言い回しは、新しさを求め続ける人間という生き物には、どこか停滞の不安を感じさせてしまうものだ。

過去の栄光という言葉が、いい印象で用いられることが少ないのと同じ考えだと思う。

過去と今と未来という仕切りを超えて一定の価値を保ち続ける事柄は、一見地味であり、栄光という言葉をあてがわれないものだ。

未来に持ち越せない一瞬の輝きだからこそ、栄光なのである。

儚さに価値を抱く文化というのは、過去における一時の熱量のピークそれ自体が戻っては来ないという不可逆性への憤りを消化するための精神であろうか。

何もかもをそのまま再現できるようになっても、儚さという概念の価値は色あせないものなのだろうか。

古きに執着し、新しさを求めないのでは、過酷な環境に置かれた人間という種が衰退してしまう、という生物的にプログラムされた生存戦略のアルゴリズムの警鐘が、言葉という形で表出した結果であろうか。


いや、何を書いてんだろう。

控えめに言って、枝葉末節の議論である。

これはギャップがほとんどない用法例なので、儚さを悪戯に阻害する行為ではないと信じることにする。

というか、なんてことはない。正しい用法だ。

あれ、ギャップとは間違いのことか。やっぱり、言葉は難しい。

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