さて、書く時間がやってきました。
これは義務なのです。無理やり自分に書かせているのです。
毎日楽しく生きていて、誰かに、そして未来の自分に残したい、伝えたい事など無いのです。
完結した一日一日、一瞬一瞬が紡がれてゆく時間の中に、残念なことではありますが、わざわざ言葉に置き換えておくべき発見もノウハウもなかったということです。
賢者は日々改善を繰り返し周りにまでその影響を及ぼし、より良い世界を構築するらしいのですが、私はついつい不摂生を重ね、だんだんと疲れやすくなっているような気さえするのですから、そんな情報に価値はありますまい。
しかし、そんな私でも何か言葉を紡ぎたい欲求だけはむくむくと湧いてくるのでありまして、ふとキーボードに手をおいて一行二行打ち込んでみては、その思想も発見も策略もない脈絡無き支離滅裂な言葉の羅列に独り辟易し、さもありなんと、また支離滅裂な一言を発しながら独り首肯し、右上のばってんをクリックする日々が続いておりました。
他者に価値のあるだろうことを考えることも、行動することも、口先だけでもきれいごとが言えない私には、さあびす精神というものが皆無なのだろう。
どうすれば他者が喜ぶのか皆目見当がつかぬ。
しかし、私には世界は美しく壮大で荘厳、それでいて華々しく華麗に映る。そんな役に立たない安穏とした生活くらいしか、私には書くことが出来ぬのだから、つまらぬ男である。
そんな男の日々とは、落ち着きたい日々である。
私には大好きな時間が一日にほとんど必ず3回あるのだが、それは朝のシャワーと夜のシャワーと、寝る前ベッドにもぐりこんだ時である。
もしシャワーがなければ私は、シャワーを作るために命を使うだろう。
私一人の貧困な知識と発想力ではどれくらいの時間がかかるだろうか。
ああ、現代はなんと素晴らしい。
何百年という時間の中で培われた人間の英知と、今を同じくして生きる見知らぬ人々の仕事のおかげで、私は一日に2回、至福の時間を味わえるのだ。
誰かが何かをしているから、目の前の現実が「起こっている」。
どう考えても、というのは何も考えていない時に使う言葉であることは承知の上で使わせてもらうけれども、シャワーを浴びられる環境というのはどう考えても当たり前の事ではない。
当たり前のように、簡単にやっているように見せるのがプロだという時があるが、少なくとも日本のシャワー事情はもはやプロの域だ。皆当たり前だと思っている。
私がシャワーを浴びるために私は何をしているだろうかという問いから、私は仕事への姿勢をしゃんと持てる。時もある。
仕事とは、なんぞ、よく分からん。さあびす精神の欠如による弊害だろうか。
できんできんと言われるが、人間が、人類が、「出来ていた」ためしがないではないか。
ある人は最高と言い、ある人は最低と言い、何も言わぬはどっちつかずの歴史に残らぬ感想であって、それはもはや議論の余地もない時間という大海に沈んだ二度とお目にかかれぬ宝物である。
私もいつか宝物になるのだ。それが、どんな宝物であるかは私しか知らぬ。
もし、その宝物の一角でも歴史という大海の水面上に光らせたいならば、最高か最低か、ひどく刺々しく偏った宝物をギラギラと光らせねばなるまい。
そして、そんな凶器のような存在感を持つ宝も、未来の進んだ思想によって無残に加工されながらマイルドに影響力を持つ程度の存在になりゆく。
そこにロマンはあるか。いや、ロマンしかない。
ロマンとは何であるか、それはね諸君、宝物だよ。
人の目を眩ませ狂わせる、誰の頭にも眠っていて、いつ発症するか分からぬ病気さ。
病気が宝物というのはおかしいと思うだろう。狂っているって?
そうさ、狂っている時が最低で最高なんだ。終わりは近い!
ナポリを見なければ!
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