ジグソーパズルや知恵の輪の何が楽しいのか分からなかった時期がある。
今は何かをやりたいと、現時点では思わなくても、それを好む人にとって何が楽しいのかを大体推測できるようになったし、自分もやってみたら楽しいと思う部分が必ず見つかると思っている。
やってみても何が楽しいか分からないというのは、つまり思いつくことがないという場合か、思いつくことが不快である場合だ。
前者であれば、自分のアンテナが低く、理解力が乏しいという能力面の問題か、単純に体調が芳しくない状態である可能性がある。体調は直せばいいし、能力や感受性の部分も経験、勉強によって大抵克服できると考える。
後者であれば、現時点で自分の持つ価値観と相いれないということで、何かきっかけがない限り、それ以上積極的に関わりを持つ必要はないと考える。
最初から楽しめないものは、一見さんお断りのような雰囲気があって、短時間で爆発的に広範囲に広がるようなブームは起きにくい。
しかし、そういうものにこそ恒久的な価値が与えられやすく、高級で、考究が求められ、もし職業的なものであれば高給取りだったりするものだ。
こう断言したら、その例を挙げなければ、言葉遊びをして喜ぶ脳みその代わりに藁を入れて笑っている人形になってしまうが、残念ながら案山子である。
案山子なのに眠くなってきた。見張りをせねば価値はないというのに、これでは案山子以下だ。
何らかの教訓を書いておかねばと気持ちばかりがはやる。
楽しさにはいろいろあるが、その一つについて説明してみる。
他人がやっていて一見地味に見えるがなにやらものすごく熱中している。しかし、見ていてもやってみても何が楽しいのか分からないという時、その人は「自分で思いついたことをやっている」のだ。
つまり、その楽しさとは「自分で思いついたことを試す」という楽しさであって、これは何者にも侵害することのできない創造的な興味関心である。
だからこそ同じことして、形だけ真似ても、そこに自分の発想を盛り込むことが出来なければ楽しさは得られないのである。
どう楽しみを感じるかという方向性が分かりやすく設計されたものばかりに慣れ親しみ、そういった発想を一切しないということになれば、どうなるか、分かりやすい快楽を求め探し続ける飢餓状態、依存状態に陥る気がしてならない。
良いものは良いと思うし、分かりやすい楽しみがなければそれも苦しい。
何事もバランスが大事だと思う、今日この頃である。
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