記録/2022.06.19

日記

快適な空間について考えた。

私がこのテーマで書きたいと思ったのは、今、まさに快適な状態だからである。

身も蓋もない当たり前のことを述べていきたい。
身も蓋もない、というとひどく冷たい印象を受けるかもしれないし夢がないと思うかもしれないが、言い換えれば、反論の余地なく、ぐうの音が出ないほどに当然のことという意味であり、それを色眼鏡をかけずに認識しておくことには、価値があると思うのである。
なぜなら、当然の事を知っておくことは、それが普遍的であるという意味で、基準となりうるからである。

基準を知っていれば、それ以下とそれ以上をはっきりと判断できる。
つまり、自分の価値観をはっきりと持つことにつながり、ひいてはそれが自分というものを認識するアイデンティティとなる。
人は、確固たるアイデンティティをもつことで、自分の人生を生きられると思うのである。

なかなか快適な空間とは何かについて、書き出せない。
いつものことである。
一見大したことのないように思う平易な事柄を書くけれど、それは取るに足らないことではなく、実は大事なことだと自分に対し忠告しておきたいのである。

もし自分が快適な空間で快適に過ごしたいと思ったら、まず自分にとって快適と感じられる状態とはどういうものか知っておかねばならない。

そして、今まさに快適だと感じている状況ゆえに、事実的に条件を正確に記録しておきたいと思う。

ここはある都市のある宿泊施設の13階、入浴施設がある階層で、ラウンジがある。
今は湯からあがり、ラウンジの大きくて柔らかい快適な椅子にもたれかかり、足を投げ出して、眼前の大きなガラス窓越しにある都市の北側の街を一望している状況だ。
周りにはストレスにならない程に間隔をおいて同じ椅子が配置され、その半分以上は誰かしらが利用中であるが、皆読書や睡眠をしているか、スマホをいじっているようで静かなものである。
フルートやバイオリンが代わる代わる単音で演奏されるクラシックが私の意識と無意識の間を行き来するくらいの心地よい音量で流れている。
空調の音の方が大きいくらいで、その空調の音ももちろんうるさくはない。

そういう静けさで、静謐とはまた違った、音ありきの静かさである。
私のお腹が鳴ったらそれは、相対的に爆音と表現しても良いくらい、静かである。
室温、湿度はどのように調整されているのであろうか、もう30分以上滞在しているが、寒いとも熱いとも感じない。

目の前の景色は、確かに街を一望しているが、時刻は夏の18時半。空は明るく夜景はまだまだ先だ。
たとえ夜景の時間になってもそこまで、映えるようには思えない。そういう高さである。隣の建物の屋上が近い。
天気は悪くない。夕焼けが綺麗な時間帯だろうけれど、残念ながらため息が出るほどのスペクタクルではない。
しかし、ことさらに残念がるほど悪い空ではない。澄み渡る青空ではないけれども、西日傾く左の空は濃淡まだらな雲が淡いピンクに染まっているし、前方のささやかな雲の切間からは青空が覗いている。
 
山の知識があれば、その名前を思い出して楽しむことが出来たであろう山々が街並みの向こうに見える。

目に見える風景と環境条件はこんな感じだろうか。

それに加えて、今の私の心理的条件も無視できない。
今、大学以来6年の付き合いになる友人が私の誕生日祝いという事で、はるばる会いにきてくれている。
私はそれを嬉しく思い、昨日の夜から今日の一日を過ごしてきた。

友人は多くはないが、それゆえ振り回されるという事もなく、それを寂しいことだと考えた時期もあったけれど、今は自分の時間を過ごせる良い条件の1つとさえ思っている。

またその少数の友人とは気の置けない仲だと思っているし、会うことは少なくとも、その存在があると思えることは、悪い意味での孤独とは無縁だという事でもある。

明日からはまた仕事で、働きたいか働きたくないかで言えば働きたくないし、明日もゆっくり寝ていたいと思うけれど、かといって特別不幸な境遇にあるとは思えない。特別に理不尽な状況下にあるとは思わない。全く無価値ではないと思うし、決して人に対し害悪となるような仕事ではないと思う。自分の裁量で自分を取り巻く状況は改善できるし、私の取り組みによって改善できる余地は十分にあると考える。それも無理だと判断して、根本的に環境を変えるという選択肢があることも忘れていないしその選択は自由なわけで、要するに自分を苦しめるのはいつも自分だ。

彼女はいないし、夢中になっている相手がいるわけでもなく寂しい独り身だが、かといって、街中のカップルを見て少しは羨ましいとは思いつつも取って代わりたいとは思わない、つまり同じような可愛い彼女と同じようなことをして楽しみたいというわけではなく、あくまでその幸せな感じに対してちょっぴりいいなあと感じる程度である。

ちなみに今、夕日がとても綺麗だ。

さっきまで、夕日ははっきりと見えてはいなかった。
名も知らぬ山の山頂に、薄い雲に輪郭をぼやかされて淡い朱色に染まるまん丸がゆっくりと沈んでゆく。
こうしてじっと見ていると、太陽が動いているというのを実感として得る。とても地球が動いているとは発想出来ない。

地球が回っているという事実は、少なくとも私の目の当たりにする世界の人々は当たり前のこととして知っていると思うけれど、私自身は実感というものと知識の当たり前には少しばかりの乖離的な違和感を覚えてしまう。

科学的知見を知らず、また、社会的に常識として浸透していない環境下では、フラットアースを信じてしまうのも無理からぬことかもしれないと思う。

もし、そういう人と対する機会があればなんと言えば穏便に話しが出来るだろう。
決して、当たり前じゃないか!と一蹴してはならない。

人間の実感する当たり前と、科学的知見による当たり前がどんどん離れていく事で起こる諍いや問題がこれからあらゆる場所で起こるような気がする。

科学的にどんなに事実として正しかろうが、人々の価値観の違いという意味では、宗教派閥の争いと同じではないか。殺し合って種族が途絶えては意味がない。

大きく出たけれど、起こり得ると思うし、既に起こっているかもしれないし、既に起こったことかも知れない。

快適な空間について書いていたはずだが、話がそれた。

快適な状況下では、自分のことを差し置いて、スケールデカく他人のことを考えられるのかも知れない。

以上。

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