今日は、寂しいな。
べらぼうに寂しい。
何故だろう。矛盾。
一人でいるのは最高に心地がいいのに、心のどこかに不足を感じる。
どうすれば、どうなれば、この不足が埋められるのか。
寂しいのは、何ゆえか。
寂しくない時との、比較を試みる。
例えば、仕事中は寂しくなかった。それどころではなかった、という一言は一見もっともらしい説明に思えるけれども、ずいぶん乱暴で曖昧だ。
なぜ、それどころではないと感じたのか、なぜ、いまはそれどころなのかをより鮮明にしたい。
当たり前の事だが、状況が違う。具体的には、環境。時間と場所、人の目、立場。
仮に、不足を埋めるものが、具体的な人だったり、状況(ライブに行きたい、温泉に行きたい等)、身体的な状況(空腹)である場合、仕事中だから実現不可能だという状況が寂しいという感情を引き起こすことを諦めさせている。
仕事を優先だと選択をしているからこそ、諦めることが出来ている。
もし、仕事を優先しているという事実を自分の選択によるものだと認識していなければ、諦めの理由にはならず、寂しいと感じるかもしれない。
寂しいと感じる原因を突き止められなくとも、それより優先的にやらざるを得ない予定に忙しくなれば、寂しいという感情を引き起こす不足を満足させる事自体をきれいさっぱり諦めることが出来る。
これは一つの解決策として十分な価値を持つ。
いわゆる、「予定を埋めて忙しくして、忘れろ」ってやつだ。
強力だけれど、寂しさの原因はいたって曖昧なままだ。
知りたい人間は、それでは納得いかない。
ここまでで分かったことは、私は「暇」ってことだ。
暇な人間が、暇なままで寂しさを克服するには、何が原因かを知らねばならない。
とはいえ、暇だなと感じる時は、大抵寂しいもついて回る気がする。
「暇」と「寂しい」の関係について考えなければならない。
先の、仕事の時間に対し、「余暇」という時間から考えてみたい。
例えば、余暇が欲しいかと言われれば、欲しい。
しかし、暇が欲しいかと言われれば、微妙だ。
つまり、余暇と暇はイコールではなく、余暇の方が意味が広く、暇の方が限定的な意味を持つ。
なぜ、余暇が欲しいかと考えたとき、仕事以外にやりたいことがあり、それに時間が欲しいと考える場合と、仕事をしていない時間が欲しいと考える場合に分けられる。
前者は余暇として得る時間に焦点が合っているが、後者は余暇が欲しいと言いながらも焦点を当てているのは働いている時間の方である。
ああ、回りくどい。
要は、積極的な予定がないことが原因なんだ。知ってる。
そして、予定を作ることが出来ない主体性と勇気の欠如、もしくはそもそもあらゆる物事に対しての興味関心好奇心の薄弱が問題だ。
これは悲惨である。惨めである。
せっかくの余暇があっても、その時間は「暇」であり、もとより仕事から逃れたい願望から「余暇」を欲していたのにも関わらず、皮肉にも「次の予定」は仕事である。
これは酷い。分かっていたことだけれど、ハッキリ言葉にしてしまうと逃げ道がない。
逃げ道とは知っている道、曖昧なまま放置する道であるから、残されたのは開拓の道である。
この状況から抜け出すには、少なくとも今は知らぬ道に踏み出す勇気が必要である。
行動としては簡単なこと、私にも出来る。
それが、快となるか不快となるかは分からない、分からないなりに期待し、なんらか結果を得て、知る。
言葉は人を殺せるのだから、自分自身を鼓舞し、追い込むことくらい朝飯前である。
さあ、背水の陣はすでに敷かれた。
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