本音とは何か。
自分の意見を言葉にする時に、なぜ本音という一方向に定めなければいけないのか。
深夜だが美味しいケーキを食べたいという本音と、太りたくないから食べたくないという意見の対立による葛藤そのものを意見にすることは許されないのは何故か。
こんな可愛らしい場面では、特に本音を一方向に決める必要性はないけれど、仕事や人生に大きく影響する選択を迫られたときには、曖昧なままでは許されず、何かを諦め、選ばなければならない。
そういう時の為に決断をすることに慣れておくのは、必要なことかもしれない。
決断を本音と認識することで、悩まず、後悔せず、明確な道筋を描いて人生を歩む。
決断は自分の外部との関係性を定める行為だ。
対して本音は自分の内にのみ存在し、自分に影響を与える感情だ。
つまり、決断をもってその人の本音とするという外部認識を受け入れる訓練の為に本音を問われている。
私の本音は、どこにあるのか。
人間という生き物の本音、感情の真実など、言葉なんて不完全なもので表現できるとはとても思えない。
完全な表現などありえない。だから、人は寂しい。
寂しさが人を動かし、営みが生まれる。その営みにより人の世がある。
それが、人間という生き物の生存戦略。
人間は諦めない。だから、あらゆる表現を試みる。
それが芸術。
これを、どうでもいいことだと思いながらどうでもよくないと思うから書いているんだとも思う矛盾を抱えている自分を認識するこの行為をもってさらに人間の混沌を知る。そして、他者から見たら私は何を考えていると認識されるのか。
そんなことを知ってもどうしようもないし、どうでもいいと思う。
でも、知りたい。
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