記録/2022.2.27

日記

面白いとは何かという問いに対する、ひとつの答えが浮かんだ。

それは「なるほど」という体験ではないか。

そう思った時、道が開けた気がした。

今やっていることに意味があるのかなんて、無駄な思考の袋小路に迷い込むことがなくなる。

「なるほど」に至るまでに障害となるのは、集中力の欠如である。

なにをするかはあまり問題ではなく、「なるほど」に至る為の集中力の無さが問題ではないか。

諦めというのは、他のことに意識が持っていかれることで起こる現象だ。

そして、「なるほど」を得るための前提条件があることを覚えておくと、なお精神的に安定する。

前提条件。それは「理解しがたい問題の認識」である。

好奇心が伴わなければ、ただ苦痛の種を知ってしまっただけだと考えそうになるが、認識できているという事が好奇心の表れであると思うことも出来る。

なぜなら、認識もできずに受けている苦痛の方がはるかに多いかもしれないと想像できるから。

視野狭窄に陥って自殺ということは、よくあることだと思う。受験シーズンだし。 

嫌な言葉だが、情弱乙という言葉もある。

問題を認識出来て初めて、解決策を講じることが出来るのである。

種がなければ花が咲くこともないのである。

解決、理解に至るまでの難易度によっては、絶望的に思えることもあるかもしれないというデメリットは認めるけれど、全てを理解している状態は、ただただ退屈だと思う。

何かに取り組む必要もなく、暇人となってしまう。

ような気がする。(全てを理解したと思ったことなど一度もないので分からない。)

映画や本の物語や、ゲームといった娯楽が面白いのは、問題提起から理解、解決に至るまでのギャップの程度がターゲット層に対して調整されているからだ。

でも、面白いと思ってもすぐ飽きてしまう。映画も小説も漫画も、いつかは終わってしまう。

うまいことずっと、ちょうどいい難易度のものが提供されれば最高だけれど、そんなうまくいかない。

昔はゲームにあんなにハマっていたのに、あんなに夢中になって物語を読んでいたのに、あんなに好きだったのに。

最近のアニメは面白くない。最近のテレビは面白くない。

最近の小説は面白くない。最近の映画は面白くない。

そう残念に思って絶望的な気持ちになるのは、私が諦めたからだ。

ゲームが悪いのではない、自分にちょうどいいゲームを探すのを諦めてしまっただけだ。次の小説や漫画を探す手間を面倒がっているだけだ。

この情報社会において、探す手間さえ惜しんでただ嘆いているというのは、客観的に見て、もう、なんとも情けない!

それに面白いものを誰かが生み出してくれなければ、楽しいものがないというのは、他人任せであるし、なんだか虚しい。

だから、理想は自分で自分にちょうどいい問題を作れること。

そう、それが理想。

理想は実現するためにある。

作ることを諦めたのなら、せめて探し続けることを覚悟しよう。

でも、今の自分にちょうどいい問題をずっと探し続けても長い事見つからなければ、嘆いてしまうだろうな。

最近、面白いことがないって。

そんな状態で誰かが作ってくれた問題にケチをつけることに時間を使うことはしたくないな。

こっちの方が面白いって、息巻いてケチをつけるくらいの人間に憧れる。

私はそうはならないけれど。

私は面白いことがあってもきっと、静かにそっとその存在を知らしめるか、1人で狂っているかどちらかだ。


これを過去の自分や、周りの人に言ったりしたら、お前が何を言っているんだとバッシングを受けそうな内容だ。(笑)

だから決して、外に向かって言うつもりはない。

人の儚い一生をつかまえて、良い悪いなんて評価するなんてのは、百害あって一利なしの愚行だ。

努めて気を付けよう。小心者の私は、保身の為に人を傷つけがちだから。

ともかく。

「なるほど」は面白く、その為に「問題の認識(疑問)」が必要だ。
こう考えることで「問題」への捉え方が少し変わる、気がする。

そんな希望的観測のお話。

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