世界は広いという言葉が、狭く感じる。
旅行なんて数えるほどしかしたことがなく、本ばかり読んでいる私がそんなことを思う。
地球の、その衛星である月が夜空に光っている。
私が空を見て宇宙の存在を、リアリティを伴って認識するのは、せいぜい、ここから38万キロ離れた月の輪郭に見とれてのことである。
小さな点としか認識できない「光点」が無数に見えているが、どうも小さすぎて確かな重みをもった、存在感といえるほどのものを感じない。
それらの点が、月や地球よりはるかに大きく、自ら光る恒星や銀河だという事は知識として知っているけれど、やはり夜空を見上げた時は月の引力に意識が引き込まれる。
ただ、夜に部屋にいる時や寝る前、勉強や読書の合間にふと天井を見上げて、ぼーっとする時、急に実際(実際のところなど、分からないが)の距離感というものが頭に降ってきて、私は自由になる。
宇宙のはるかかなたのブラックホールに吸い込まれるかのように、地球を抜け出し、ご近所さんに挨拶をするようにちょっと行ってきますと月に手を振り、太陽を離れ、天の川銀河を地元と言わんばかりに飛び回り、大マゼラン雲、小マゼラン雲を目指す、これもまだまだ隣町、アンドロメダ銀河だってその隣といった感じ、それが250万光年。
そこまで来ても、地球から見た、小さな点はいっこうに近づいてこないばかりか、さらに増えた。
いったい、どこまで行けば。。。
そこで初めて気づく。旅に出た理由などないことに。果てを知りたいのだろうか。
では、その果てに何を期待していたのだろうか。
その旅の中で人間には会わなかった。どこまで行っても、物質と呼ぶべきものがあるだけだった。
もう、地球上で人間という生物によって生み出された概念なんて、なんの意味もなかった。
暗いとか明るいとか、暑いとか寒いとか、表現する必要もない。
自分を人間だということも、いつの間にか分からなくなっていた。
最期に頭に残っていた概念は「自由」。その前に残っていたのは「美しい」。
もっとも甘美な概念と思われた「美しい」からも解放せられ、私は「自由」を得た。
そうして、私は思考をシャットダウンする。
死とは、最も自然な安定状態を指すのではないか。
生きるという苦しみは安定状態に飽きた魂と呼ぶべき存在が気まぐれに生み出した娯楽であって、その娯楽が人生だ。
娯楽にはハマるものもいれば、ハマらないものもいる。
そんなことを思った。
150億光年先から見たら、人間が存在することの方がおかしいよ。
コメント