思い通りという言葉のおかしさに気付いてみようと思った。
さて、いきなりおかしさを含む一言を書いてみたが、これからどうなるか。
そもそも思いという言葉がひどく模糊として曖昧である。
まず思いというものを、言い換えればイメージを鮮明に描けていればいるほど、思い通りという言葉はより思い通りに扱うことができるだろう。
少なくとも私の日頃抱くイメージは、私のひどい乱視による視界のようにぼやっとしたものでしかない。
だから私にとって思い通りにいかないという言葉は、鮮明にイメージして何かに取り掛かっている人とはまた違った意味合いを持つだろうと考える。
というより、鮮明にイメージできていないのに、この言葉を用いるのは不適切、誤用ではないか。
自分の好まない結果に対して、思い通りにいかないと思う時、予定していた未来とは何だったのかを改めて考え直してみるべきだ。
思う未来の想像が更新されないのであれば、それは初めから思ってなどいない。
思い通りという言葉を扱うほどの思いがそもそも無いことになる。
「思い通りにいかない」という思いは幻想にすぎない。
なるようになっただけなのに、落ち込むのは無駄だ。
逆に、思いがそもそも無いにも関わらず、たまたま好ましい結果を得たからといって、思い通りだと思い込むのも危険である。
なぜなら、プロセスを理解しない気持ちよさを得たことで、無条件に得られる気持ちよさへの期待だけがエスカレートするからである。
その先に待ち受けるのは遅かれ早かれ、幻滅しかない。
わが身に降りかかる現象に対して解釈が出来なくなるのだ。
解釈が出来ないという事は、理性が働かないということであり、感情に振り回されだけになるということ。
わけもわからず自分や他人を攻撃するようになる。(ポケモンならば、自分だけで済むのだが。)
理性で感情を抑え込めと言っているのではない。
感情に振り回されることは人生の醍醐味である。
感情に振り回されるという現象を楽しむために、理性による解釈が必要なのである。
つまり、なんだ。
何が言える?
もっと鮮明に未来をイメージしろという事か、いや、違うな。
嬉しい事や悲しい事、辛い事や楽しい事を経験した時に得られた感情を、「思い通りにならない」や「思い通りだ」の一言で片づけるのは危険だし、それ以上にもったいない。
うん、こんなところかな。
まあまあ。
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