今日、と言っても日をまたいだので昨日であるが、久しぶりに雨の日だった。
前の雨の日がどのくらい前か忘れたが、それが久しぶりという曖昧な言葉を使う条件だ。
そして、日をまたいだ時の「今日、いや昨日だが」という補足は、普段は何事にも厳密さを問わない人も必ずと言っていいほど前置く不思議なセリフだ。
朝、家を出て、雨が香る春の田舎道の空気を思い出し、頭に浮かんだのはルクレティウスの残した言葉だった。
暗唱できるほどではないが、イメージは鮮明に脳裏に起こる。
この一文とは手持ちの本と、ネットサーフィンで計2回出会った。
今、手持ちの本を手に取り書き写す。
「わたしたちの誰しもが、天の種子から生まれてきた。誰しもが、同じ父親をもっている。わたしたちの母なる大地は、澄んだ雨粒を身に受けて、光り輝く果実や、繁茂する木々や、人間や、あらゆる世代の野生の獣を、活力に満ちた土から生み出した。そして、それらすべてを養うために、大地はわたしたちに食物を与えた。おかげでわたしたちは、甘美な生活を送り、子孫を残すことができる。」
ルクレティウスは紀元前1世紀を生きた人物だ。
誰がいつ日本語に訳したのかは知らない。
原文のニュアンスとどう違うか分からないが、少なくとも私がこの日本語訳で理解するこの一文には地に足のつくような安心感を覚える。
なんでも人間は作ることが出来るようになり、「製品」に溢れ、「製品」に依存して生きている。
もちろん、悪い事ではない。
しかし、ルクレティウスの詩を思い出すたびに、人工物があふれる現代において、どれだけ自然、大地や空の恩恵を受けているのかということを漠然と思う。
少し冷静に考えれば、ほとんどすべてが自然の恩恵を受けていることは疑う余地がないのだけれど、そのことを実感することもなければ、むしろ当たり前でつまらない事のように認識していることに違和感を覚える。
私は疲れているのだ。
なんでもありすぎて、惑わされ、気が散っている。
何も見つめることが出来ず、車窓から見える景色みたいに何もかもが流れていく。
ぼーっとしていて、せわしない。
常に焦っているような気がする。
そこに突如映し出される、美しい詩節による静寂の景色は癒しのひと時だ。
イメージが世界を創るという考えは、現代ではまた違った意味となるけれども、紀元前の思想をあてがっても不思議と違和感がない。
これは私がまだ、私を知らないという事だ。
それはとってもワクワクすることだ。
そういえば、昨日、「すべてがFになる/森博嗣」のオーディオブックが配信された。
S&Mシリーズが今年1年かけて配信される予定だ。
森博嗣の虚構世界を音から体験する。楽しみだ。
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