遺す

考えたこと

はたして遺すことが必要なのか。

遺すことそのものには意味が無いように思える。

意味があるのは自分がなぜ遺したかったのかという、その先の己の良心に向き合えたかどうかだと思う。

僕は遺したい。

意味は感じない。

いや、一つだけ意味が生まれる可能性は考えている。

ただそれは特殊すぎる。ファンタジーだ。

それ以外の未来を考えた時、自分がいなくなった先のことなどどうでもいいと思う。

では、なぜ遺したいのか。

それは、寂しいから。

この気持ちと永遠に別れることは出来ない。

たまにふと出かけていて居ないことはあるが、ほとんど日帰りで帰ってくる。

自分はここにいるはずなのに、ここにいない気がする。

だから、自分の分身を作って眺めることで自分がいる事を確かめたい。

ああ、だから客観的な見方ばかりするのかもしれない。

自分を確かめる為に分身を作る。

それが、遺すこと。

「今」の自分がどうしようもなく死んでいく。

それが、寂しい。

だから、遺す。

そして、「今」の自分が「今だった」自分の遺書なり、遺物なりを確かめることで、「今だった」自分を「今」の自分に蘇らせる事が出来る。

そう信じ、願って遺す。

もちろん、うまくいくわけはない。

死んだものは生き返らない。

過去の自分は生き返らない。

どうしようもないことだというのは、分かっている。

寂しさの正体は分からない。

分からなくてもいいのかもしれない。

だって寂しさの全くない人生なんて、想像も出来ない。

寂しさを知らない人間がいたら、気持ち悪い。

だから僕は寂しさを肯定する。

寂しさがあるから、人は動く。

動くから、物語が生まれる。

物語があるから、笑顔が生まれる。

物語があるから、悲しみが生まれる。

物語があるから、怒りが起こる。

物語があるから、絶望する。

物語があるから、希望を抱く。

人は生きているだけで、物語を生み出している。

寂しさ無くして物語は無い。

どうしても寂しさを特別視してしまうが、寂しさが僕にとって遺すことにつながる感情なので許して欲しい。

寂しさは行動を引き起こす感情の一部に過ぎない。

しかし、同時に無くてはならない感情でもある。

喜びを感じたことがない人間がいるだろうか。

怒りを感じたことがない人間がいるだろうか。

哀しみを感じたことがない人間がいるだろうか。

楽しさを感じたことがない人間がいるだろうか。

全てが物語の動機となる感情だ。

この中から寂しさだけを取り除こうとすることが出来るだろうか。

喜びと楽しさだけで、物語が描けるだろうか。

そんな物語があれば、奇しくも喜びと楽しさ以外の感情を教えてくれるに違いない。

寂しさは真に痛快無比な物語に必要不可欠なのだ。

という、なんの意味があるかも分からない「今」の僕の考えを「今」の僕に遺す。

 

最初のファンタジーの話。

僕がもし記憶喪失になって積み上げてきた価値観をすっかり忘れてしまった時、「今だった僕達」の遺物を見た時に、今これを遺す意味を感じるだろうと想像する事は少しひねくれすぎているのではないかと自分でも思う。

でも、面白いと思うんだ。

ああ、そういう話を書けばいいのかもしれない。

「今たち」を忘れた自分にどう思われるかなんて分かるはずも無ければ、その時自分にどう思って欲しいかなんて要求もない。

ただ、人づてにどんな人間だったかを知らされるより、ずっといいと思うんだ。

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