僕の劣等感について

考えたこと

はじめに

この記事は(他の記事も基本的には)人に読んでもらうために書いているわけではなく、自分の思考整理の為に趣味で書いています。文脈めちゃくちゃ、誤字脱字当たり前、何言ってるか分からない文章です。ならわざわざ投稿しなくてもいいのではと思いましたが、せっかく書いたし、自分でも見返したいので投稿しました。というより、そういうブログ。読む人はいないと思いますが、一応。

話を聞いている時に感じる劣等感

・劣等感(人の話を聞いている時に感じる劣等感について)
よく人の話を聞いて、自分の知らない知識や経験に劣等感を感じ、落ち込むことがある。身に覚えのある人が多いのではないかと思う。
この劣等感は相手は知っていて、自分は知らないという相手との知識、見識の差に対して感じるものだ。
ここに間違いがあるのではないかと思った。
というより、ワンクッション考えを挟むことで、劣等感として受け取っている事がお門違いではないか、劣等感の本質は別にあるのではないかという事を思い考えてみることにする。

その考えとは、
「相手が知っていて、自分は知らない。」ことと「劣等感」が必ずしも結びつかないという考えだ。
ここを考察していく。

これを理解するには、まず、相手が情報発信者で、自分はそれを聞いているという立場の違いがあることを理解しなければならない。
人はだれひとりとして、同じようには考えないし、同じ人生を送ってきてはいないのだから、自分の知識と経験に差があるのは当然の事だ。
だから、知っているか知らないかという点だけで、優劣を決めるのであれば、当然情報発信者が有利になり、
聞く立場にいる時点で、劣等感を感じるのは必然ということになってしまう。

ここで、考えを止めては、理屈としてはわかるけれど、じゃあどうしたらいいのという事になる。。
これはあくまで、前提となる現状の問題「情報受信者という「知らない側」でいる時、何でもかんでもすぐ、劣等感に結びつけていた今までの自分の思考」を文章化しただけものだから。

当たり前だけれど、聞く側、知らない側でいる事がダメで、情報発信者であれとか、人の話、意見を聞くなという事にはならない。
問題とするのは、あくまで、劣等感としてとらえてしまう考え方の部分だ。

前提を箇条書きでまとめる。
1.話を聞くという立場上、知らない知識、見識を聞く事が多いこと
2.知っているか知らないかという点で、優劣を決めるという考え方
3.2の思考では、必ず劣等感につながること

改善するのは2の考え方なので、深堀していく。

まず、知らない事を聞いているのに、劣等感を感じないパターンがあることに気づく。
自分が興味がない話、価値を感じない話を聞いている時があると思う。
それは、その知識が自分に必要ないと判断したということだ。ここを解決の糸口としてみる。
実験的に極論を考えるとこうなる。
「自分のもつ知識や考え方、環境が全てで至上のものであり、他の知識や意見なんてどうでもいい」と思うのならば、劣等感なんて感じないという事。仮にこれを上の極論と呼ぶ。
しかし、現実はそうはならない。
ここで、逆の極論を立ててみると、「自分の持つ知識や考え方、環境はこれ以上ない程貧相なものであり、他人のもつ知識や意見が全てだ」という事になるが、これも違うと感じると思う。これを下の極論と呼ぶ。

つまり、自分はこの間のどこかにいる。ここまでもずいぶん頑張って言葉にしてみているが、さらに頑張って、これを言葉にしてみる。うまく伝わるか分からないが、こういう事になる。
まず、上の言葉を使って、乱暴に文章化するとこうなる。
「自分の持つ知識や考え方、環境が全てで至上のものというわけではないが、これ以上ないほど貧相というわけでもない。他人のもつ知識や考え方、環境がいいなと思う事もあるし、思わない事もある。」
思ったより、分かる文章になったけれど、もうちょっと、柔らかい表現にしたい。
「自分の持つ知識や考え方、環境で気に入っている部分もあるが、気に入らない部分もある。気に入らない部分について、具体的な解決方法を知らなかったリ行動していなかったリ、そもそも、明確に自覚していない部分もある。そんな中、他人の知識や考え方、環境を知って、いいなと思う所もあれば、どうでも良かったり、むしろ無自覚に見ないようにしていた面に気づかされて嫌だなと思う時もある。」
だいぶ、人間的というか、生々しい、現実に近い表現になったと思う。

これは、みんなが持っている感覚なのではないか。

ここで着目したいのは、下の極論を受け入れられなかったということは、必ず「自分の中に気に入っている部分がある。」という事。そして、大抵の人がそれを持っているという事。これを事実として、さらに考えていく。

このみんなが持っている感覚というものを踏まえて、最初の問題提起であった、劣等感の考察を深めたい。

最初は気取って情報発信者と受信者という言葉を使っていたけれど、分かりにくいので、話す側と聞く側という表現に変える。

ここで、いったんまとめる。
Ⅰ.話を聞いている時に感じる劣等感を無くしたい。
Ⅱ.話す側と聞く側の立場という違いがある事を認識した。
Ⅲ.話す側も聞く側の人間も下記のような同じ感覚を持っている
 「自分の持つ知識や考え方、環境で気に入っている部分もあるが、気に入らない部分もある。気に入らない部分について、具体的な解決方法を知らなかったリ行動していなかったリ、そもそも、明確に自覚していない部分もある。そんな中、他人の知識や考え方、環境を知って、いいなと思う所もあれば、どうでも良かったり、むしろ無自覚に見ないようにしていた面に気づかされて嫌だなと思う時もある。」

本題からずれていきそうだけれど、かまわなーい。進める。

話を聞く側の時に感じる劣等感がテーマだった。
あえて、話す側の立場のことを考えてみる。
話す側としては、話す内容は様々だろうが、少なくともこの場で話す価値がある判断したという意味で、「気に入っている部分」の知識や経験、考えを話すと思う。つまり、話す側という立場の時点でⅡの感覚の中でポジティブな面を感じている事になる。
対して、聞く側の立場はどうだろう。
その話題が気に入っている部分に入る可能性はどれくらいあるだろう。
おそらく、そんなに高くはないのではないかと思う。
相手の話す知識や考え方がすべて、自分の感覚と同じだったら逆に気持ち悪いだろう。
聞く側の立場としては、知らない知識や考え方が自分に入ってくるのは当然として、それをどんな感情で処理するかを考えることになる。SNSでいいねをつけるかつけないかを判断するように、自分の中ではもっと複雑な仕分けが行われていると思う。
そこで、イメージとして、劣等感ばかり感じるということは「知らない事」を「自分の気に入っている部分」フィルターにかけて、引っかからない部分のほとんどを「劣等感を感じる」という部分に仕分けをしてしまっていると考える。
分かりにくいけれど、「自分の気に入っている部分」フィルターは自分の事のように理解できるという意味で共感できるという感覚に置き換えてもいいかもしれない。すると、共感できないけれど、いいなとか嫌だなとかといったものが残るはず。
ちなみに、劣等感を感じない知らない話というのは、「どうでもいいと思う」に仕分けされる。
この処理方法という考えから、本当にそれは劣等感に仕分けされるのかを考える事をしてみる。
問題は、仕分ける先の感情の区分けが曖昧な事ではないか。
要するに、気持ちのジャンル分けがおおざっぱすぎて、無駄に劣等感として情報を受け取ってしまっているという事ではないかということ。
ていうか、ここまで考察するなら、劣等感とは何なのかを最初にはっきりさせるべきだった。
劣等感とは、自分が他人に劣っているという感情のこと。
つまり、優劣の基準を他人におき、自分との比較をした時、自分の方が劣っていると感じることを劣等感という。

ここからは思考的な対処法を考えてみる。
まず、自分が劣等感を感じたら、それはどういったものさしで優劣を判断しているかという事を考えてみるといいかもしれない。
自分の場合だったら、給料の多い少ないがものさしで、それが相手より少なければ劣っているという考えがある。
確かに劣等感は感じるけれど、同期のそれと比べても、対して精神的にダメージはない。
多分、自分の価値観では自分の給料をそこまで悪く思っていないのだろう。お金への価値観も関係していそうだ。
他には、容姿での劣等感、特に肌荒れについては考えることが多い。あとは彼女の有無。これは、そこまで気にならなくなった。人間関係を優劣で判断するものではないと思えるようになった。友達の数も同じように、あまり悲観しなくなった。ていうか友達に失礼だよ、うん。劣等感を感じるのは知り合いの数、これと混同していた。知り合いは打算的な関係も含まれるので、うまく関係性を構築すれば、人生に有利に働くと思うから。
具体的な例を挙げてみたけれど、どれもそこまで大きな精神的ダメージにはならない。
となればこれが解決策なのかもしれない。
いや、どの劣等感も苦しいには苦しいのだけれど、具体的であるからこそ、解決方法がないではないし、行動できない理由も考えられる。
海外旅行に行ってきただとか、彼女が出来ただとか、ボーナス50万貰っただとか、宝くじ2000万当たっただとか、確かにうらやましいけれど、劣等感とは違う。

分かった。俺は神にでもなりたいのかというくらい、自分への理想が高いのだ。
誰よりも知っていたいという願望のうらがえしとしての劣等感。
いうなれば全世界の人間に嫉妬し、劣等感を感じていたのだ。
よく耐えてきた俺。
そして、よく認めた俺。
全ての人間に好かれたいとか考える人、嫌われたくないと考える人は漠然とした劣等感を感じやすいのではないかと思う。
価値観に優劣はないよ。自分は自分だよ。みんな違ってみんないい。だよ。

以上。

結論
・劣等感という概念の範囲をはっきりと持ち、言葉、語彙を増やし感情を仕分けできるようになることで、うらやましいとか、憧れという感情ごと、劣等感という言葉に変換してしまうように、何でもかんでもネガティブに捉える事がなくなる。
・聞く側という立場自体が、知らない事を知る機会である。
・知らない情報を知るという事はメリットであり、劣等感とは関係ない。

劣等感の原因の本質は知識の有無とは別にある。

・知らないはなしをきいて劣等感を感じるのは、いろいろなことに興味がもてて、知識欲がある証拠。
なぜなら、しらない事でも興味がない内容なら劣等感を感じないから。
・上記の議論を踏まえて、補足的に情報発信を促す。自分の意見は通らない。価値がないと判断するのは時期早々だと。なぜなら、それは情報を受け取る相手の知識欲が欠如しているだけであり、価値を感じてくれる人はどこかに必ずいる。そういう、いろいろな事に興味を持って、知識を蓄えていく人に魅力があると思う。そういう人とのつながりを得るためにも、情報発信は必要な行動だと思う。

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