いったい誰のための、何のための記録であるか考えたことはあるか。
ある。
過去の記録を遡れば、その類の思考が散見されるだろう。
それではなしに、今この瞬間に、汝、何の為に記録するかと問われたならば、それは今の為であると答える。
わざとらしい口調や、もっともらしい言い回しを楽しむためである。
ここ以外で意見を述べる場というのは大抵、人がいる。
そこで私は、このような口の利き方はしないし、できない。
正解か不正解かどうでもよい、自分の意見をわざわざ表面にだすこともない。
人はそうそう変わらない。
それを念頭において、私は、およそ一年前の記録を読んだ。
なんのことはなかった。
そこには確かに私の思考が記録されていた。
その時の私と今の私は、考え方も考えていることも、ほとんど変わらない。
むしろ、過去の方が不思議な新鮮味を持って感じられた。
私という人間はこういう人間なのだと思った。
仕事はまじめにやっていたら、ある程度できるようになっていた。
まじめに考えて行動し、失敗して、次の仕事をする。
できるようになる。
当たり前のことだ。
当たり前の結果が、眼前にある現実だ。
もっと現実を観察したら、より当たり前の事実に気付けるかもしれない。
ちょっとなに言ってるか分からなくなってきた。
本日の活動限界が近いようだ。
明日が来ないとしたら、この記録になんの意味があるか。
明日が来ないことによって、初めて意味付けされるかもしれぬ。
その可能性の為にというのは、嘘くさい。
現代のごくごく一般的な、平々凡々のサラリーマンの思考なぞ、どこに出しても恥ずかしい。
残すべきでない。
だとすれば、やっぱり、このタイプしている瞬間が最も私に意味がある。
地産地消。へたくそだ。
上橋菜穂子さんのような、繊細で柔らかい文章でもって、私の目にうつる美しき世界を描けたらと夢想する。
真剣なのだ。焦っていない。
ゆとりと情熱をもって向かい合わねば、自分のものとして理解できない。
落ち着こう。
コメント