私はあと数か月で28歳になろうという、もう立派な大人です。
今更と思いつつ恥を忍んで、ひとつ明確に宣言しておこうと思った。
勉強は楽しくないものである。
私は、自らをいつ死ぬか分からぬ生き物であると客観的に自覚する人間として、そんなものに限られた時間を費やすのは愚の骨頂ではないかと思いながらも社会の流れというものに逆らうこともできず、また、時にはあたかも自分の望みだと言わんばかりの態度を取り、進学して、なぜそれが必要なのかも分からぬまま教育機関に通う日々を過ごし、年齢だけは積み重ね、晴れて社会の、会社という人間組織の一部として生産的な活動をするようになった。
そんな、どこにでもいる人間。
だからこの思いもどこにでもある考えであることは承知しながら、言いたい。
「勉強はすべきだ。」
誰かより優れていたいとか、成功したいとか、社会に貢献する為とか、誰かの為とか、そういう理由でなく、いや、もちろん結果としてそれらの欲求や目的が満たされることはあるだろうが、あくまで、取り組む前の動機として、その活動の思想として、個人的な望みとして、勉強はすべきものだと信じたくなった。
そういう、叫び。
それを、自らの宣言としたく、これを書いている。
天邪鬼がなにを言うておるのかと嘲笑する自分と葛藤しつつ、この文面は残しておかねばならないと叫ぶ自分を精一杯引っ張り上げて、これを書いている。
チャンスがあれば、もっと具体的に、それでいて明確に、鮮明に、そう思う理由を言葉にしていきたい。
とにかく、
「勉強はすべきだ。」
勉強する内容の選択というところは、もうちょっと考えてから言葉にしたい。
ちょっといいことに気付いた。
インプット型の勉強中に眠くなってきた時、本当にくだらないことでも、書いていると、不思議と眠気がなくなる。くだらないことと書いたけれど、ついさっきまで勉強していた内容に少なからず関連していたりする時もある。
確かに全く脈絡のない思考をするより、類推しながら思考していく方が自然だと思う。
そのアウトプット物に意味があるかは、どうでもいい。
インプットの一方通行では何かが片方に溜まり、澱んでいくから眠くなるのではないか。
そこで、なんでもいいからアウトプットの思考をすることで、一方に溜まった何かが、撹拌されて、覚醒するのではないか。
インプットの内容とアウトプットの内容が必ずしも意味のある対応を持っていなくても、人間の頭は勝手に類推するようにできているから、発見やひらめきがあるのではないか。
そう思うと、自分で自分が分からないことに面白みが感じられる。
自分のことが分かると思うことは、ずいぶん傲慢で、しかも、つまらない事なのかもしれない。
なぜ生まれてきたのか分からないながらも食事や睡眠や娯楽を楽しんでいるように、なぜそんなことを考えたかも分からない思考も、面白がってみたらいい。
というか、言葉にするまでもなく、皆そうしているのかもしれない。
私が面白がることを拒否していただけで。
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