小説を読んでいる時、ある人物が発する一言が面白くて笑ってしまうことがある。
具体例は出さない。
時間短縮の為である。
寝不足は敵だと思いながら、ついつい、どうしても何かしら書いておきたくなる。
仕事の中に仮説と実験の思考を挟み込むには寝不足の頭には荷が重い。
すると、ただいいなりの道具として、しかも、ポンコツな道具となり、さらに何の発見も得られないから、自分にも相手にもいい事がない。
と、また話がそれた。
それ自体は面白くもなんともない言葉。
その一言自体は何のひねりもない、月並みなセリフだったり、一般的な感想だったりするのだけど、それがどうにも面白いと感じる時がしばしば訪れる。
その言葉を言う人物のキャラクター、場面、タイミングなど、いろいろな要素があって、初めて面白いと思える。
考えてみれば、当たり前のことだけれど、これを読書の中で感じるという事が、私には至福の時である。
人物像が分かってきて、今までの発言の傾向が分かっていて、今の場面の状況が分かっていて、今までの話の全てを俯瞰的に理解しているからこそ、面白いと感じることが出来る。
その「面白い」がなぜ至福かというと、自分で発見したという気になるからである。
もしかすると、そこを笑いどころとして作者が仕掛けたところかもしれないが、そんなことは分からない。
読書は能動的にするものである。
映画やアニメのように、話のリズムが強制的に構築されることがない分、自らが取り組んでいるという感覚があると思う。
もちろん、映画もアニメも、見る側の意気込みという意味で能動的に鑑賞に取り組むという事も出来るものであるし、読書の方が能動的で高尚な取り組みなのだ、なんて言うつもりもない。
あくまで私の話である。
私の場合、小説の方が、自分が能動的に読んで情報を集め、それで発見し獲得したというある種の達成感みたいなものが得られるのかもしれない。
解釈の自由度が高いとも思った。
小説には難解な文章がしばしば存在する。
理解に苦しむ場面や退屈な場面が続く時なども、自分のペースで、自分なりの解釈をしながらなんとかかみ砕いて読むことも出来るし、ときには飛ばし読みしたりしてしまったりする。
どうでもいいなと思った所は全く覚えていなかったりもする。
すると、それはもう、自分が構築した世界観だ。
自分の構築した世界で発見した面白さは自分のもので、本を開けば、またその面白さを噛みしめることが出来る。
時間がたてば、また違った視点での面白さを発見できる。
面白いという感情の再現性もあって、さらに展望もある。
味を増していく感情のコレクション。
それが、読書の魅力の1つだ。
毎度のことながら、驚く。
書こうと思って書いたわけではないのに、何かしら書けている。それも長文。
いい事や、センスのいい文章が書けたぜ、とか思うことはないが、手を動かしてみないことには、何が書かれるか分からないな、ということを実感する。
そこに少し感動する。
やってみなければ、分からない。
「出来るか出来ないか」分からないのではなく、「何が出来上がるか」分からない。笑
分からないことだらけだ。
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