何か書きたくなったので、書いてみる。
といっても書き留めたいこと、気付いたことがあるわけではないので、何を考えようか考えよう。
考えること。
考えるべきだと思う事を考え行動し、何かしらの結果を得るべきだという強迫観念が常にあって、そのストレスが本棚の上のホコリのように少しずつ確実に堆積しているような気がする。
たまに思い切って掃除を試みる時もある。
しかし、簡単に手が届くところばかりではなく、テレビの裏や部屋の隅、ベッドの下といった手の届きにくい場所に対しては、ホコリが存在することは気づいていながらも結局は放っておくことが多い。
面倒だと感じる。
思い切ってそういうところの掃除をし始めると、大抵、それまで目につかなかった場所にもホコリがたまっていることに気付いてしまう。
キリがない。
どこかでキリをつけなければならない。
そうして全てを綺麗にしてスッキリすることは叶わず、どうせまたホコリは積もるという事を思い出して、無理やりキリをつける。
こんな事を漠然と思うようになったのは、小学校で授業を受けるようになり、テストを受けるようになってからのことだ。
それまでは、「やるべきこと」という概念がなかったように思う。
そういう意味で、本当の子供だった。
ストレスは未知の壁で、それを乗り越えなければどうにもならないと本気で思っていた。
逆上がりが出来なければ、自転車に乗れなければ、かけっこで一番になれなければ、本気で明日は来ないような気がしていた。
誰よりも綺麗などろ団子を作り、誰よりも上手にコマを回せなければ、自分が居なくなってしまうような焦り、丸裸の心臓を守るような必死さを抱えていた。
何をしても自分より上手な子が常にいることも分かってはいた、それでも、それらに取り組むことを放棄するのは死活問題だった。
それらを「やるべきこと」という概念の塵にして、ホコリのように積もらせておくことを覚えたのはいつからだろうと考えたとき、思い起こしたのが小学校のテストだった。
まさにテストでいい点を取る為の勉強は「やるべきこと」だった。
「やるべきこと」という概念の箱に入れることで、やらないという選択肢を得たのだ。
そうすることで「やること」と「やらないこと」の選択をするという自由を手に入れた。
テスト本番で残念な結果に終わっても、それは「やるべきことをやらなかった結果」として受け入れることを覚えた。
これが悪い事だとは、言い切れない。
成長すると各受容器の機能が成熟し、認識出来るものが多くなるものの、1人の人間が処理できる情報量は限られる。
取捨選択の能力がなければ、あっという間にオーバーヒートだろう。
取捨選択することで、事無きを得て生きていられる。
生存本能の一種ではないか。
次は積もった塵で窒息しそうだけれど。
さらに次があるのかもしれない。
「やるべきこと」という概念を獲得した時のように、取捨選択による結果をどう受け入れるかという部分に、いまだ知らない概念による処理方法があるのかもしれない。
なんて期待する。
ああ人間、安きに流れるとはこういう事か。
教訓の生まれぬことを考えてしまった。
でも、まあ楽しかった。これが私だ。
書きたいことなんて、考えるだけ無駄なような気さえする。
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