最近はよく仕事をしている。
仕事をしている時間という意味では、この1年さして変化はない。
だから、この場合の「よく」というのは、その内容と自己満足の量を表す副詞である。
こんな自己評価をしているという事は、天狗になる一歩手前ということであり、飽きてきたという事であり、盛大なミスを犯す前振りだから、気をつけねばならない。
仕事をこなすペースというのが掴めてきて、どうにもならないことと、どうにかできることの区別がつくようになった。どうにもならないことは諦め、どうにかできそうなことへの取り組み方はパターン化され、それぞれの時間のかかり方の見当が付くようになった。それで無駄に悩む時間が無くなり、作業と化した仕事をしていると他の事を考える余裕が生まれてしまったということかもしれない。
それもそのはず。社会構造のピラミッドの外側から見れば、私は大した仕事をしていないのだから。
上司に今の仕事が余裕であることがバレたら、もう一歩難易度の高い思考を求められる仕事を渡されるに決まっているから、ボンクラを演じる。決して余裕を見せてはならない。
大した仕事をして生きるか、大した仕事しないで生きるかという点の善悪は、個人に委ねられるもので、ようするに勝手である。
ライフスタイルの選択の自由があるだけだ。
その点で、私という人間には悩みが尽きない。
と、ついつい自分を特別扱いしてしまいたくなるけれど、悩みが尽きた人間は死んでいると思うから、全ての生き人は悩んでいるとして、鼻をなんとか縮める。
人間は、葛藤による脳内摩擦エネルギーによって、自我を持つ存在だ。
我ながら、のっけから、わけのわからん事を書いているなと思いながら、少し安心する。
なぜだろう。自分がいるなと感じるからだろうか。
言葉によって安心を得るというのは、自分自身に対しても有効なのかもしれない。
最近文章を書くという事への興味が薄れていて、記録をサボっていたことから、ちょっと前の文章を書くという事に並々ならぬ憧れを抱いていた時期を思い出して、ふと気になり、昔の記録を適当に読み返してみた。
今は全く読んでいないが、いわゆる純文学と呼ばれる、ミステリやファンタジーのような明確な娯楽性によってカテゴライズされない、芸術性に重きをおく作品を好んで読んでいた時期がある。
その頃の記録だと思うが、自分の文章ながら面白かった。昔の自分の言葉を面白がれるというのは、調子が良いという事だろう。
昨年の9月末、こんな記録を残していた。
中秋の名月という言葉を使いたいが為に紡いだ冒頭の一文は、仕事への不安と、自分自身を卑下し、諦めているような心情を漏らしながら、それでも美しい自然を表現したい思いが溢れている。
日々、心を支えてくれる自然を賛美したかった。仕事で自分の判断を持てず傀儡にもなりきれず、自己否定的になっている時だからこそ、何か自分自身の表現を持ちたかった。
このころはまだ、上司の出来ないヤツ視線を今より5倍くらい強く感じていて、仕事も次の行動の判断がつかないことばかりで、自分でも、自分は出来ないと否定しかしていなかった。
その中で、現実を観察して得たのであろう知見が、今、目に留まった。
「納期なき仕事は永遠に完成を見ない。」
だって、偉そうに。
しかし、そのとおりだと思った。
あれから、仕事では何台も機械を造ってきたのに、仕事以外で完成させた作品は一つもない。
納期設定をしていないし、締め切りを急き立てる人もいない。
機械を作りたいと思ったことなどないのに、そっち方面は着実に成長してしまっている。
これはいったいどういうことだ。
なんの為の人生だと、自分で自分に憤りたくもなる。
意識というものの無力さを感じる。環境が人を、人生を、作品をつくるのではないか。
とまあ、大言壮語が標準装備で、ほかには何も持たぬのが私である。
それなりに楽しくやっている。
幸せだなどという戯言は言うまいが、かといって不幸とも到底思えない。
幸せでも、不幸でもない時間を謳歌している。
また、不思議な、いや矛盾した言葉が生まれた。恵まれていると言いながら、幸せではないというのは矛盾だろう。
しかし、気に入った。
矛盾を孕み、正しくなくとも、何かしらの感慨を抱かせるというのが、文章の面白さ、ひいては人生の面白さではなかったか。
久々だからか、ずいぶん張り切ってしまった。楽しかった。
鳴らない腕によりをかけてしまった。
どんだけ内向的なんだ。内省の鬼か。
外見ろ、外。
ああ、月が綺麗だ。
違う、そうじゃない。
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