ここは吐き出す場である。
普段の思考がまとまっておらず、ひどく散逸的で、脈絡などどこ吹く風のカオスな心境を克服するべく対処法の1つとして、思いつくままに書く、言葉にするということを実践するのである。
恐れるべくは恐れることそのものだという。それはもっともだと思える。
何を考えたらいいかを考える時に、こんなことを考えて何の意味があるかと思い、ただでさえ浅い思考をそこで諦め、もっと意義ある思考をせんと欲し、他の議題を、興味を、素直を持ち出そうとするのであるが、どれもこれも意味を感じない日々が続く。
これが辛い。考えたい事すら決められない。これは恐れから来るものかもしれない。
私は昔から、可能性というものを崇拝してきた。可能性によって、受け入れがたいことも受け入れられ宇という思想であった。
他人というのはいつでも私を惑わせる。考え方、言葉選び、行動、表情、仕草、服などのセンス、その人の特徴というものを表す自発的なものに関して、それを受け入れ否定しないことが私の処世術として幼少のころに刻まれた。
それは、その人が選択する部分で、それは選択できない部分に対するその人の取るポーズである。
苛立ったり、怒ったり、喜んだり、悲しんだりという感情表現の選択は、いつだって選択できない部分に対するその人なりの反応。
それは、私にとっては選択できない私に対する入力で、それに対する私の態度が相手との関係性を形作るのだから、私はいつだって神経質になった。
できれば、いざこざは避けたい。
私の人間関係においての関心はその一点のみなのかもしれない。
積極的に、自分が影響したいという欲求が私にあるだろうか。
私は自らが納得できれば、後は平穏に時が過ぎればいいと思っていた。
私には集中力が無いのだと思う。人との会話は、相手に、話に集中せねばならない。
私が話を避けたがるのは、相手に関心を抱いていないからかもしれない。
私は、私の想像外、許容できない考えや行動をひどく恐れた。
だから、そういう考えもあるよねというパターンを多く認識し、動揺しないように備えてきた。
この歳になって、そのパターンが大体網羅して、他人という存在に惑わされないようになってきたと捉えることも出来るか。
鈍くなっただけかもしれない。
人付きあいの狭さも関係しているだろう。
ああ、私は他人の何を恐れているのだ。同じ人間、同胞だというのに。
しかし、この同胞という言葉は、同時代を生きる運命共同体として全体の一部だという、帰属意識というのか、仲間意識というのか、そういう感覚はある。
相対しては、言葉が継げぬ小心者でありながら、この感覚によって、私は私を人類として社会に参加できている気がする。
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