運動のみが魂を支え、そして精神を高揚させる。
これはマルクス・トゥッリウス・キケロという、紀元前1世紀の共和政ローマ末期に活躍した政治家の言葉である。
僕はずいぶん昔にどこかでこの言葉に出会った。
今はもうどこで見知ったのか思い出せない。
ずいぶんと記憶の底で眠らせていた言葉だけれど、ここ2、3年で度々思い出し、そして最近は月に何回か思い出すようになり、キケロという人物の存在は大きくなるばかりだ。
紀元前1世紀の人間であるキケロが残している言葉がこの一文だけであるわけがない、僕はこの一文を思い出すたびにこの人物の事をもっと詳しく知ろうとして、検索をするのだが、小難しい歴史や哲学が堅苦しく書かれていてとても読む気になれず断念する。
だから、いまだにキケロについてはこの一文を残している紀元前1世紀にローマで生きた政治家という事しか知らない。
今日も同じ事を繰り返した。
そして結局、キケロについての知識を増やすことはせずにこれを書いている。
こんなことを書くという事は精神的に参っているということだ。
実際、仕事がうまくいっていない。そして、やる気もない。
やる気であるならばこれを書いてはいない。
やらねばならぬという気持ちがあり、結局はやるのだという諦めが僕を無表情にさせる。
自分はダメなやつだと思ってしまう。
寝てもどうせ同じような明日が来るだけだと思ってしまう。
何をしてもこの憂鬱からは逃れられないと思う。
何も考えていないけれど、何も考えたくないと思う。
そして走る。
あたまは空っぽでいい。
走るのに頭を使う必要はない。ただ両足が同時に地面についている瞬間が無いように気を付けて、左右の足を交互に前へ出すだけでいい。
それだけで、世界は前進する。
苦しくなる。それも前進している確かな証拠と感じる。
そして同じ場所に戻った時の前進した世界はとても綺麗に見える。
この時僕は思い出す。
運動のみが魂を支え、そして精神を高揚させるという2100年以上前に生きた人間の言葉を。
そして2100年前も人間が生きていた事を実感し、遥かな気持ちになるのだ。
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