何故にこんなにも手ごたえがないのだろう。
何故に何も残らぬのだろう。
僕の頭はいつからこんなにポンコツなのだろう。
思い返してみれば、ずっとポンコツだったと思う。
テストでいい点を取っても満たされない部分、テストでいい点を取り褒められることの違和感。
そこをもっと、突き詰めるべきだった。
おそらくその違和感こそが、自分の価値観というもので、僕はそれを追求することをサボった。
誉められて気分がよく、また、それで生きていくのに何も問題は無いと思ったから。
実際、今も生きていくのに問題はない。用意されている問題をひぃひぃと言いながら解いているに過ぎないが、それで生活出来る環境が現代は整っている。しかし、自分の意思は浮薄も甚だしい。
それが、かえって自らの苦しみとなろうとは微塵も思わなかった。
解ければいいと思っていた。
しかし、解くだけの人間には問題が用意されるだけだと気付くべきだった。
問題を見出し、それを解決したいと望み、邁進することこそ生きる手ごたえではないかと思う。
その問題を見る視野は、自分を、人を、社会を、自然を、歴史を、つまり教養が広げる。
そして、そのモチベーションは自分以外の人に向けられる時の方が強い。
その意味で、人間は1人では何もできないと言われるのではないかと思う。
僕は、教養を身に付けなければならない、と同時に他人を知らなければならない。
今更などと考える暇はない。
メメント・モリ。
今日も1時に寝ると決めたのならば、それまでの時間はおのずと決まる。
その時間で何をするかと考えている時間が一番無駄である。
集中できなければ、寝るのが一番である。
ああ、口先だけの人間がここにいる。嫌だ、嫌だ。
もう手遅れかもしれない。
何もないのは嫌だ。黒歴史ですら惜しい。
結果が欲しい。遺すものが、伝えるものが、願わくば託すものが欲しい。
どこまでも臆病なのか。
いい加減にしなければならない。
必要なのは、実際と反省だ。
夢物語なら、もっと面白いものを書け。うじうじするな。
自分は愚かだからと、自らの納得をサボってはいけない。
自らの納得を放棄して手ごたえなどありえない。何になりたいが無くとも。
何かをするものである限り、そこに自らの納得を得る事は可能なはずである。
それを放棄する事は、怠惰以外の何物でもない。
自らの納得あればこそ、その間違いや思い上がりに憤り、次の段階が待っている。
そういう意味で、僕は何の階段も、一段たりとも上っていない。
納得が大事だ。なんとなくうまくいった、生きてこられたのは、幸運な事だが、そこに自分は無い。
それは本当に生きたと言えるのか。
ただ感謝の念は忘れてはならない。
それは別として自分を鑑みて、胸を張ることも無く、本気の後悔や反省も無く、自分の存在を認められるか。
自らの納得、そこに善も悪もない。
納得には時間がかかる。
そして、人間1人の時間は多くはなく、そして、どれだけあるかも分からない。
インプットはどれだけしても、自分たり得ない。
アウトプットこそが、自己形成である。
そこには納得が絶対必要だ。そして、満足せず奢らずまたは腐らず、淡々とした反省と改善とによりさらなる納得を積み上げ厚みをましていかなくてはならない。
だからいつまでも抽象に逃げていてもいけない。
抽象ではないアウトプットこそが全てであり、僕の実体である。善も悪も無く、急げ。
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