辛い時ほど笑え。
いや辛いなどとは思っていないのだが、なぜこの言葉を思い出すのか。
そもそもこれは誰の言葉だ。
賛同するもの多かれど、あまりにも誰にでも浸透した言葉ゆえに誰の言葉か分からない。
そして、その上向き志向で多くの人を救ってきたであろうこの事実を真実として受け止め実践するものはどれだけいるのか。
言葉から行動ではないのではないか。辛い時につい笑ったら救われた気持ちになった経験があるから、この言葉が「分かる」となり、事実として自分事として納得したまでの話ではないのか。
決して、決してこの言葉を知ってから、そうかと思って実践し、その効果を検証し納得したというプロセスを踏んでから、この言葉の普及を手伝った者はいるまいと思う。
そして、経験からも推測からもこの言葉に関心の持てない者は、この言葉にいやらしいところも無く無害で、大多数に認められる存在にかみつく理由も無いことから、迎合し、賛同している風を装っているに過ぎないのではないか。
屈折しすぎだろうか。いや、間違いない。
きっと私は世の中を憎んでいるに違いない。
辛いのだ。
人は辛いと言いながら生きていくのだ。
楽しい楽しいと嘯き、ニコニコと生きている人間はこの世にいるまいて。
少なくとも私は知らない。そんな世界も人物も。
紀元前に生きた哲学者のデモクリトスはよく笑ったらしい。泣く哲学者ヘラクレイトスと対比して笑う哲学者と呼ばれたらしい。
何故に人は笑う。何故笑うように進化した。
泣くのと鳴くとは大きく意味が違うが、泣くのは何ゆえか。
笑いと泣きについて、生命が命繋ぐことを考えればその機能は不可解に思える。
そのへんの本をひっくり返したり、ネットで検索すればその機能の理由は諸説あるだろう。
しかし答えに興味は無い。今は知識の充足をしたいのではない。
私はただただ辛いのだ。私の中でおしゃべりと言葉は仲違いしたらしい。書くことは、おしゃべりよりかは仲がいいらしい。
いい加減しておくれ。私は空に浮かびたいのだ。
地を這う言葉を吐きたいのではない。断じてない。
綺麗と美しいの大海を自ら生み出し、綺麗と美しいの妄想の大波にさらわれて、感嘆無くして呼吸の一回一回が出来ないような、息の一回一回が粋な行動として賛美される息苦しさが心地よく、上も下もなく溺れる様が様になる、ああ忙しい忙しい、無き心に泣き心、まさに夢心地。
それが私の住む世界。
科学は嫌いだ。いけ好かない。信じればいいのか疑えばいいのかはっきりしない。その上、真理は目の前にいながらステルス決め込んでいる。私に分からないから嫌いだ。では何故、こんなにも事実が気になるのだ。好きなのではないか。好きなのに分からないから、だだをこねているだけなのか。
そんな陳腐な人間なのか。まいった。いやらしいのは私だった。
世界も私であった。そこに他者はおらず。一寸の間隙も無く私で埋め尽くされた世界があるのみだった。
世界を憎むとはすなわち私を憎むことであった。
まいったまいった。これはいけない。
寝るのだ。それが至高なのだ。思考は嗜好に違いないが、実体のない劇薬でもあるのだ。
考えすぎとはすなわち思考という劇薬の過剰摂取なのだ。
夕焼けも無く、月も無く、抑揚もない雲の底の下では、見えない目には見どころなく、見どころ無き夜には少しの慰めも見込めなかった。
そんな日には思考が劇薬となる。
死の縁が迫り来て、相対的に生の土俵の縁に追いやられる。
そんな日には塩を投げ、ラベンダーの香りに包まれて寝るのがよろしい。
おやすみなさい。
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