落ち着いた日だった。
なんの気負いもためらいもない。
もはや、生きているとさえ言えないほどに呼吸のみをしていたような気がする。
思考もない。ぷかぷかと呼吸をするための口と鼻だけを水面から突き出して漂った。
僕にはそれが精いっぱいだ。人を愛する余裕、つまりは人を笑わせる余裕がない僕には、衣食住もテクノロジーも他人でさえも、過ぎた贅沢だった。
余裕がないことは罪である。
余裕がない人間は他人からエネルギーを奪う。
余裕がない人間は、社会における負債である。借金である。
借金は眠らせておくとぶくぶくと膨れ上がる。
僕は今日よく寝た。
また一段と膨れ上がった借金である。
僕が楽しいと思うことは、ひどく俗で卑しい事のように思えるから、僕はしゃべらないのだ。
僕はしゃべればしゃべるほどにひどく心を苦しめる。自己肯定感の虚無に飲まれている。
自縄自縛という煩悩。
いえ、悩んでいるのではないのですよ。
孤独はいい。いい加減のぬるま湯ですよ。
悩みは答えがあることを前提としません。それは、ふと降りてきて何かがきっかけとは思えるものの、その理屈はついぞわからず、結局、時間が解決したとしか表現のできないものなのです。
では、問題は山積みなのではないかと思うでしょう。しかしね、無いのですよ、問題なんて。
だって、問題は答えがあることが前提に、模索して導くものではないですか。
答えが欲しくて、求めて、思考したり、行動したりするものではないですか。
こう見えて僕にも問題はありますよ。髪が伸びすぎました、それだけです。
1000円を払って解決しました。答えは徒歩10分の散髪屋でも良かったし、目の前のハサミでも良かったのですが、ともかく、問題解決は簡単でした。
いまこうして、何かを書こうとしていなければ、それを問題とも認識していませんでした。
つまりね、大した問題はないのですよ。
順風満帆。問題がないんですよ。
問題が何もないとね、考えることもないし、行動することもないのですよ。
本当は生きていなくてもいいのです。生きているから生きているだけなんです。
そんな生き物がなぜ仕事をしたり日常生活を送るという行動をしているかと言うとですね、まずエネルギーを持っているからですね。
これは、どうしようもない。持たされたし、持っていたし、持っているのですから。
エネルギーは消費されますね。自然の摂理です。それが、生活です。
生きて活動することです。
じゃあ、その活動は何によって決定されうるかということですが、まさか僕自身が決めているとは思いません。だって、問題はないのですから。問題がなければ、その人がその人の問題として行動するのでなければ、その人の決めた活動とは言えないと思いますから。
じゃあ、何に動かされているかといえば、構造だと思います。
パノプティコンです。僕にはその構造の創造主が何かはわかりませんが、もし誰かが意図的に作った構造の中で動く生き物だとしたら、とても滑稽ですね。私はうまく機能しているのでしょうか。
まあ、そんなこともどうでもいいのです。
僕は人間ですが、僕には人を入れる箱を作るなんて所業はとてもできません。
余裕がないですから。
箱は夢の国でなければなりません。
人間が構造を作っているのであれば、その人が恩恵を多分に受ける構造を設計するでしょう。そして、その構造が長持ちすることを切望するでしょう。設計者が恩恵を一番に受けつつもそれが、構造内の人間には分からないようにして、いや、わかっててもそこから抜け出したいと思わせない程度に適度な恩恵も感ぜられるよう設計するのでしょう。
だから、箱は夢の国でなければならないのです。愛がなければ、愛を理解していなければ、そこに感情がなかったとしても、愛を設計できなければ、夢の国を作れないのです。
だから、僕には無理なのです。余裕がないですから。
自分1人の幸せだけを手に入れて、もう満足しきってしまった豚なのですから。
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